京都という街は閉鎖的に見えて、実は寛容な街なのではないか、と感じる事がある。
「着物警察」という言葉がTwitterのトレンドになることがある
近頃、「着物警察」という言葉がTwitterのトレンドになることがある。どうやら着物を着崩したり現代風に着ると、怒って指摘してくる年輩の女性達のことを指すようだ。
京都は「封建的」で「いけず」の人たちの街だと、メディアが安直な発信をしている。そして単純に「和」をイメージさせる観光地の多さから「映え」を狙い着物を着る人達、またこの土地では茶道や華道を嗜む人も多く、その為に着物を着ている人もおり、街を見ていても着物を着用する人が多く見受けられる。
この報道されている京都人の人柄と、着物を着用している人の多さという2点から、京都は一番「着物警察」が多いのではないかという印象を受けていた。
しかし、実際のところは若い女性はレースのついた付け衿や帯締めを使い着物を可愛らしくアレンジしたり、和柄の着物の生地を使った服装でマニッシュに着こなす女性もいる。少し年配の方も古くなった着物をリメイクしてワンピースや小洒落た服装にして街を闊歩しているのだ。
私は結婚して京都に嫁ぎ、それまではずっと神戸に住んでいた。
神戸という街のイメージは、港街や旧居留地ということもあり、「お洒落」なのだと思う。
ご当地の特徴を紹介するテレビでも「神戸美人」「お洒落」という言葉が並ぶ。
私自身もだが、大学生の頃は皆こぞって赤文字系ファッションに身に包み、その「神戸らしさ」から外れると奇抜なものを見る目で見られたのを覚えている。
当時は特に読者モデルの多い女子大学が多かった為、尚のこと皆がこぞって真似したものだ。
同じ服に見えるかもしれないが、他よりも少しだけ特徴的である事やブランド品の新しいものを持つ事で自我を保とうとする。
そこから外れると異種のものという目で見られてしまう。
成人式以外に着物など着ようものなら、サザエさんのフネさんみたい、という着ている人にもフネさんにも失礼な言葉も飛び交う。
伝統から外れると嫌味を言われるのかも。京都に嫁いだ私は
このエッセイのテーマは「わきまえない女の日常」である。
神戸にいた頃、わきまえるなど考えたことがなかった。綺麗な服を着て、綺麗に過ごす事が当然であり、何かに対してもわきまえている意識もなかった。
ところが、知らずのうちにわきまえていたのである。
京都に嫁ぐことになり、私は怯えていた。
伝統から外れると嫌味を言われるのかもしれない。
「同じ関西人でも京都の人らはちゃうから気をつけや」と色々な人から言われた。
私が神戸で得たものは京都では通用しないんだ。
型にはまる、はまらないでいえば、主人は年下、私は30才をとうに過ぎていた。
もしも私が神戸で得たものがゼロだとすると「旦那より年上で30才にもなって何も知らない女」になる……。
ゼロどころか、マイナスからのスタートに感じた。
神戸にいた私の方が、わきまえていたように感じてならない
しかし、京都こそ自由な雰囲気が溢れていて驚いた。
学生は同じ服に身を包むことなく、自由に所謂ダサい服を着て歩くことも逆にお洒落な服(それも目指すもの一つではなく多種多様)を着て歩くことも許されている空気感がある。
ところが、「適当」とはまた違う。
お盆は墓参りに行き、お住職さんにお経を読んで頂き、毎日お供え物を決まったものに変える。
お正月は大晦日からお正月を迎える準備をして、大きなお芋が入ったお雑煮を朝から決まった御膳とお椀で出し、「お祝いやす」と家長の声から頂く。
わずらわしいといつか感じる事もあるかもしれないし、これはこれで、わきまえてしまっているのかもしれないが、お盆やお正月はどこに旅行に行ったかを友人と競うように語っていた神戸にいた私の方がわきまえていたように感じてならないのだ。
「ええ加減でええから」
お雑煮を作る時に義母に言われた言葉である。
決して適当ではないが、必ずコレ、という分量もない。
毎年、毎日味は変わるがそれを3日間続ける。
これが嫁ぎ先でわきまえていない私にとって、1番安心した言葉であり、私の心の平穏を保つ言葉である。