キティちゃんのワンポイントがついた、赤いビニールのかっぱを着た2歳の私は、曇り空の下で「死ぬほどいやだ」という顔をして写っていた。
家族には、「かっぱ、すごく似合ってて可愛かったのに、小さいからわからんかったのよね」と微笑ましげに言われた。それでもなお、色褪せたアルバムの中の私は怒ったような、泣きそうな顔をしてキティちゃんの顔を引っぱって引きはがしている。

処世術をペラペラと言う「大人」に対して「死ぬほどいやだ」と思った

十数年後、真っ赤なヴィンテージのワイドパンツを履いた21歳の私は、講義室の椅子に座って「大人」の話を聞いていた。
「これから社会に出ていけば分かると思うけど、どんな上司や同僚、後輩にあたってもそこそこ上手くやるコツはある程度諦めることです」というアドバイスを頂いて、その「大人」への理解をある程度諦めた。
処世術をペラペラと言いはじめた「大人」に対して、「死ぬほどいやだ」と思ったからだ。マナーはともかく、社会に出た人付き合いは暗黙の了解としてこうするのが常識だ、と言われたことに違和感を覚えたことはないだろうか。それである。
その後、就活を口にすると不機嫌な顔をする私に、「就職なんて……」を読み取った母親から怒られることが多くなり、その度に、就職自体が嫌なわけではなく、「死ぬほどいやだ」の対象がよぎるのだと説明するのが難しくて、今も就職する気がないのだと勘違いされたままでいる。
伝えることは難しい。自分の感覚を他人に説明して100%正確に伝わるなら、この世にはプロ野球選手が溢れかえって誰もが豪速球を投げまくり、場外にかっ飛ばしまくり、ドラフト会議以前から野球界が大変なことになっているだろう。

大人の言うことより、「死ぬほどいやだ」の感覚は何度も助けてくれた

「就活は嫌かもしれんけど、いつまでも精神年齢が子供なのよ。あんたもう大人でしょ!成長しなさい!」
これが、100%を目標に至極丁寧説明して返ってきた返事だ。

それでも「死ぬほどいやだ」を大事にしている理由は他でもない、「大人」の言うことより何度も自分を助けてくれたからだ。
バイト、勉強、球技、家事、雑用。こうした単なる「いやだ」は渋々やれば何とかなるし、たまにプラスにはたらいてくれることもある。資格がとれたとか、美味しいお菓子をもらえたとか、プラスもピンキリだけれど。いやな割にはプラス。
一方、「死ぬほどいやだ」は、そう感じた対象に、私が努力してはたらきかけをしても何もならない。むしろ損をする。感情やエネルギーを多く消費するぶんのボーナスなんか誰もくれない(「大人」な対応ではそれを当たり前と言う)。

それをして過ぎた時間の勿体なさは、言うなればアレに似ている。気分に任せて予算オーバーまで無駄買いしたあと、本当に欲しいものの再入荷を知ってしまった時の気持ち。これだ。本当に手に入れたいものを目の前に、ゆーっくり失うのを眺める情けなさ、悔しさたるや。
まぁ、現実失った時間には無駄買いのようなオマケはついてこないが。

自分自身に近道と安全をもたらす、いわゆる危険察知センサー

これまで、「死ぬほどいやだ」った算数や数学を避けた結果、国語の成績がすばらしく高校と大学に合格し、「死ぬほどいやだ」が避けられなかった結果、「大人」にも助けてもらえずに自身の精神が壊れてしまった事がある。
簡単にいえばこうなるが、避けられなかった時の痛みには耐えられない辛さがあるし、避けられた時は避けられなかった後を想像してゾッとする。いわゆる危険察知センサーなのだ。

頑固と言われる理由だし、身も蓋もない、参考にしてねとはとても言えない。しかし、自分自身に近道と安全をもたらしてくれる。今回も、就活を激励してくれているらしい「ある程度諦める大人」の下に就職して関わっていたとするなら、はなから自分のことを諦めている上司に適当な扱いをされて、素晴らしい仕事につけましたなんて結末になどなっていないと思う。

「死ぬほどいやだ」は他人から見ればただのワガママや妄想だろう。ただ、私にとってワガママや妄想、他からのアドバイスよりも成功実績をもつ直感なのだ。これを信じることが「子供」であるなら、成長した私は今頃死んでいる。まったく過言ではない。

2歳よりは「大人」になった私は、赤色好きだし、ビニールのかっぱも必要とあれば着られる。今なら2歳の着る赤いキティちゃんかっぱの可愛さもわかるし、嫌いだったピーマンも食べられる。ただ、「死ぬほどいやだ」を避けるのはどうしてダメなのか、未だにわからない。
分からなくて逆風に立っているが、追い風にするためにダメな理由を教えて下さる「大人」には、また「死ぬほどいやだ」という感覚を禁じざるをえないのだろう。