3日前は動画で笑っていた。手も振っていた。歩けてはいないけど、また自宅へ一度戻るためにリハビリしてたのに。
母は昨年、11月11日に亡くなった。
もちろん、全ては突然の出来事ではない。
母は大腸癌だった。それも7年間も。
母が選んだホスピス。私は、パニック障害のリハビリで会いに行かず…
手術しては通院。手術は4回、それからは転移し、広がり、最終的には余命を告げられた。
元々和歌山県出身のため、通院には不向きな病院だったがたまたま兄が大阪で仕事をしていたため、遊びに行ったり病院の付き添いに行ったり。その時からきっとしんどかったのに、負けたくないと頑張って歩いたり2人で美味しそうなカフェへ行ったり。
母は大阪が好きだった。沢山の美味しそうな場所、利便性。
大阪で兄と住んでいたのは2年くらいだが、その時が1番楽しそうに見えた。
そこからは腫瘍マーカーに異常が少しずつ見え、治験や投薬に励んだが、ついには歩けなくなってしまった。
母は迷惑かけたくない思いなどから、自らホスピスに入ることを選んだ。
ホスピスではコロナの関係で面会が限られていた。家族だけ、それも15〜30分程度しか会うことは出来なかった。
母がホスピスに入っている間、私はパニック障害のリハビリをしてたため、連絡はLINEか通話しかなかった。いつ亡くなってもおかしくないと分かっている反面、母の声、LINEでの会話で現実逃避をするかのように信じなかった。というか、信じたくなかった。
送られてきたのは、笑顔の動画と写真。その3日後に母は亡くなった
11月8日、母のLINEから動画2本、写真が3枚送られてきた。
あ、笑ってる。頑張ってるんだ。私も頑張って、車で会いに行けるようになるまで早く治すんだ。
その3日後、母が亡くなった。
信じられなかった。看取ることはできた。その日は朝から様子が急変し、車ですぐ向かった。パニックなんてどうでも良かった。とにかく、母に会いたかった。母は家族に見守られながら永い眠りについた。
結局私はパニックという病気を言い訳に、ホスピスで頑張っていた母に会うことは叶わなかった。
お通夜もパニック障害が原因で出ることが出来なかった。
それからはぼーっとする日々が続いた。パニックもひどくなり、鬱も併発した。泣いては死にたいと繰り返し考えていた。
外にも出ず、夜明けまで泣く日々。
思い出した母の言葉に感じた後悔。明日には明日の風が吹く
パニックを初めから支えてくれたのは母であり、母だけが私の病気に理解があった。
自分の体もままならないのに、まず1番に私たち子供の体の心配や栄養バランスがしっかり考えられたご飯を作ってくれていた母。
一緒に治療を頑張ろう!と優しく声かけしてくれた母はもういない。ふと母の言葉を思い出した。
「明日は明日の風が吹くからなぁ」
母がまだ元気だった頃、言っていた。私は酷く後悔し、自分を責めた。
明日にはどうなるかなんて、明日にならないとわからない。なぜ私はその明日をもっと大切にできなかったのか。1日1日をもっと大切に、母のためにできたことがあったのではないか。
その言葉と後悔が消えぬまま、明日には明日の風が吹く日々を過ごしている。
その風は母が見守ってくれているそよかぜなのかもしれない。