大人になりたかったわたしは今、なりたくないと願い大人になった

20歳になった。
オフィシャルにお酒が飲めるようになった。
タバコを吸ってみた。
20歳で成人を迎えて、3年とちょっとが経った。
社会人になった。
同じルーティンをこなす毎日。
泥のように眠る休日。
早起きにはなったけれど、夜更かしはやめられなかった。
否、やめる気がない、という方が正しいか。
眠れないなんてことなかったのに、眠れない日が増えた。
上司の顔色は伺うけれど、思ったことは言わなきゃ気が済まなかった。
でも、言わないでいること、はだいぶ増えた。
どうでも良いと思っていた愛想はひらひら振る舞っているし、いらねえよ、んなもん、と思っていた愛嬌も、キラキラ、振り撒けるようになった。
余計な哀愁は、たぶん、ふわふわ纏っているんだろうね。
もう随分、「大人」としての立ち振る舞いをこなしているような気がする。
「大人」って、なんだろう。
中学生の頃、「大人になりたい」と、心から願っていた。
同年代と過ごす時間も、空間も、大方あまりにも居心地が悪かった。
大人と話す時間や、話題が心から愛おしかった。
大人と、(当時のわたしが思うに)大人の話題で盛り上がっている自分が好きだったし、生き生きとしていたと思う。
家にも、居場所はなかった。
父親が不倫、包丁を持って振り回した挙句「俺はここで死ぬ」と警察様のお世話になる始末。
そして実の両親が離婚、かと思えば母親がどこの馬の骨かもわからない男を連れ込んでパーリナイ。
パーリナイ?
ふざけるな。こちらからすればとんでもない地獄である。
そしてその地獄は、私の帰る場所であった。
早くいなくなって欲しかった、早く終わって欲しかった。
早く出ていきたかった。
むしろ、わたしが早くいなくなってしまいたかった。
どこにもいけないで地獄に居続けなければならないなら、一刻も早く大人になっていなくなりたかった。
ここから、この場所から、この家庭から。
早く大人になりたいと願っていた、そんな幼き頃である。
それがいつからか、「大人になりたくない」と願っていたのである。
もう、いつからかは思い出せないのだけれど、大学に入学して以降ではあるから、きっと20歳は超えている。
わたしが思い描いていた「大人」はもっと素晴らしかった。
もっとかっこよかった。
もっと凛としていた。
でも、わたしが出会った「大人」は、汚かった。
酷かった。狡かった。
そして、惨めだった。
幻滅した。
自分にも、「大人」にも。
わたしが思い描いていた理想は、たぶん神か、聖人か、なんかの、超人の類だったんだね。
そして気づいてしまったのだ。
あんなに大人になりたかったのに、今は大人になりたくないと願っている。
嗚呼、わたしは大人になってしまったんだな。
理想は儚く散って、「大人になりたくない」と子どものように泣く大人が一人、無事完成していた。
さてここで、「大人」ってなんだろう、という疑問に立ち返る。
わたしが思うのは、大人とは、子どもであることを隠すことができる人間、を指すということだ。
むしろ、「できるようになった」と言うべきか。
「大人になりたい」と願っていた頃にできなかったことが、「大人になりたくない」と願う今、できること、できていること、できるようになったこと。
きっとそれは、子どもであることを隠すなんらかの術なのだろう。
でもね、わたしは、そんな今の自分も好き。
大人になりたかったわたしは、いなくなりたかった。
大人になることがいなくなること、とは思っていなかったけれど、あの時のわたしは、自分が存在していることが罪だった。
でも今は違うから。
いなくなりたいとも、いなきゃよかったとも、あまり思わなくなった。
いろんな大好きな人が周りにいてくれて、支えてくれている。
わたし自身も、ちゃんと成長したからそう思えると思うから。
だから、がんばったね、えらかったねってわたしはわたしを褒めてあげる。
そしてこれからも「大人」やっていこうね、がんばろうねって励ますの。
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