私は、父に怒られたことがない。両親はいわゆる、クラスで一番ヤンチャな男の子と、学級委員長の女の子が恋をする。少女漫画で見たことがあるようなまさにソレで、どうしよもないお調子者の父と、真面目で優等生のまま大人になったようなしっかり者の母。

母に叱られているのに、ヘラヘラしている父を情けなく思っていた。私には姉が一人いるのだが、容姿や思考全てがとにかく母に似ている。一方、私の見た目は父にそっくりで、姉によく嫉妬したものだ。勉強も運動も、姉よりももっと良い順位や、もっとたくさんの賞状が欲しかった。

私は道端で倒れ救急車で運ばれた。その日、父の言葉を思い出した

母に褒められたい。その一心で時が経ち、大人と呼ばれる年齢になっていた。好きなことなんてない。得意なことも分からなかった。

学生を終え大人になると、良い順位をつけてもらえなくなった。賞状もない。常に、上には上がいた。もがいていると、母の声が聞こえてくる。「あなたは、出来る。結果が出せる。やれば出来る」と。随分と長い間、その言葉だけを頼りに生きていたから、ただただ何度も頭の中で繰り返した。

気が付くと、眠ることができなくなってしまっていた。食事も喉を通らない。とはいえ、母に褒めてもらえるように、一生懸命に過ごさねばならないと、自分自身で決めつけていた。

そんなある日のこと、無理が祟った。道端で倒れ、救急車で運ばれてしまった。意識が徐々に戻ってくると、近くに両親がいるのが分かった。母は泣きじゃくっていたが、父は母をなだめながら、しっかりと医師と話をしていた。私は驚いた。あのしっかり者の母が……。あのお調子者の父が……。

その日、病院のベットの上で、私は随分と久しぶりに涙を流した。父が、私に向けて言った「がんばるな」という言葉で、あまりにも多くの見逃していたこと、スルーしてしまっていたことに気が付いた。

緊張した時、辛い時、いつも父は「魔法の言葉」をかけてくれていた

そうだ、あの時も。発表会の本番前、緊張で震え上がっている私にも。好きな男の子が、私の友達のことが好きだった時も。職場に行きたくなくて、玄関で立ち止まってしまった時も。父は、たったそれだけを、ただただ言い続けてくれていたのだった。

「がんばるな。笑え。楽しんでいる顔のお前が一番だ」と、ぶっきらぼうなその言葉たちの温かさに、涙が止まらなかった。

父は、泣きじゃくる母と私、そして仕事から駆けつけてくれた姉を、まとめて抱きしめた。知らなかった。父が、こんなに大きかったこと。母が、こんなに心配してくれていたこと。姉が、こんなに大事に思ってくれていたこと。家族というものが、こんなに温かいということ。

私の父は厳しくなくて、ヘラヘラしている。だけど、大きくて温かい

私は、父に怒られたことがない。しかし、世界で一番優しく叱ってくれる。厳しくなくて、ヘラヘラしている。だけど、大きくて温かい。

ちなみに私は今、心から好きなことを仕事にしている。人を笑顔にする仕事である。自分でも意外だったのだが、人を笑わせることに喜びを感じる日々である。

ただでさえ毎日、生きているだけでも色んなことが起こる。何かに巻き込まれてしまったり、誰かに傷つけられてしまったり。思い通りに進んではくれない。周りにいるのは、好きな人だけではない。

それに加え、コロナ禍である。ぶつけようもないモヤモヤした気持ちは、一体どうしたものか。とっておきの言葉がある。「がんばらない」こんな日も、ある。こんな時も、ある。