男にちっとも選ばれず、結婚もせず子供も望まないけれど、私は幸せである。
こんな私は、女の「あるべき姿」をわきまえていない「痛い女」なのかもしれないし、残念なことに、このエッセイは「モテない女の言い訳と負け惜しみ」と受け止められるかもしれない。
私の人生は、どうやら「選ばれない女」の方へと向かっているようだ。それでも、私は自分の人生を愛し、希望をもって日々を生きている。

女は子供を産む性。そんな枠にはめられることが大嫌い

私には婦人科疾患がある。その病気のせいで、妊娠できる可能性は平均よりもぐっと低い。選択の余地などなく、そもそも子供を産めない体なのかもしれないのである。
でも、私自身は、子供がいなくともこのままの自分自身と付き合っていけると考えている。私は、私にできることをするだけだからだ。

しかし社会は私をどう見るのだろう。昔は、子供ができない女のことを「うまずめ」と呼んだ。漢字にすると、「不生女」や「石女」と書く。これを見て背筋が凍りつく。共感していただけるだろうか。子供を産めない女は、生きていてすらいけないのだ。
「そろそろいい人見つけないとな」「高学歴の女性は結婚を急がないから」「ベビーが欲しいなら、さっさと結婚しないと」
会社で言われた。衝撃を受けた。至極当然の正論を放つかのように、こんなにはっきりとセクハラ発言をされたことは初めてだった。
女が子供を産む性であるということは、社会的にみて、「当たり前にそうあるべき」ことであり、「正しい」ことで、「優遇されるべき」ことなのだ。そのような「枠」にはめられることが、私は大嫌いだ。

自分が本当にしたいこと。それは文章を読み、書くこと

理不尽な発言を背中に受けながら、残業をした。仕事のお伴にと買ったコーラのアルミ缶を、自分でも気づかないうちにぐしゃぐしゃに握りつぶしていた。
病変を抱えた子宮と卵巣が悲鳴を上げる。どうしてこんなばかな話を聞かされなければならないのかと、悔しくて涙が出た。

その出来事の後、女としての「あるべき姿」をわきまえることをやめた。「選ばれない・産めない」ことに対する劣等感を捨てたのだ。
恋愛に関しては、「だれかいい人が見つかればいいけど、いなくてもいいや」というスタンスに切り替え、無理をしてモテるための努力をするのをやめた。体にぴったりとまとわりつくニットのワンピースを着られるように、胸とお尻がほどよく大きくてウエストがきゅっと引き締まった体型にならないと!という焦りはここで消える。
「一人は楽ちんでいいよね」などとマウントをとってくる女の存在も、消える。これだけで、背負っていた荷物がずいぶんと軽くなった。
それから、自分が本当に何をしたいのかについて考える時間を取った。私にとって、それは文章を読み、書くことだった。

恋をする前に、私は私でいたい。私は自分の人生を愛している

恋愛をすることも、家庭を持つこともとりあえず放棄したので、時間がある。その時間の大部分を読書と執筆活動に投資することにした。
「孤独で暇な人」と言われようが、そんなことはもうどうでもよかった。恋をする前に、私は私でいたかった。

真っ白な画面を見て、「やるぞ」と思う。頭を抱えながら、頭の中にある概念を文字にする。文字を連ね、伝えたいことを文章にする。
とっさに雷鳴のようにアイディアがひらめき、焦ってメモをとるときの高揚感。まっさらな海に一人放りだされ、「どこへでも行ける」と確信するような感覚。その過程が快楽としか言えないほど、好きなのである。

今日も私は文章を書く。経験がないから恋愛や出産や子育ての描写は苦手だけれど。それでも、自分を「できそこないの女」と呪っていた時に比べれば、今は格段に幸せだ。私は自分の人生を愛し、毎日に希望をもって生きている。
「いい彼女」「いい奥さん」「いいお母さん」を強いられている皆さん、こんな生き方もあるんですよ。