「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」
ーーこの一文で始まる吉本ばななさんの小説『キッチン』は、唯一の身内である祖母を亡くした主人公のみかげが、同じく大きな喪失を経験する同居人の雄一と、食べることを通じて心を通わせながら、光に向かって日常を生きていこうとする物語である。

この物語は、台所を愛し、食べることをとても大事にしているけれど、いわゆる丁寧な暮らしを描いたような物語ではなく、むしろ対極にあるといってもいいかもしれない。
タイトルに『キッチン』とあるけれど、繊細で詳細な料理シーンはない。真夜中に夢見心地で作るラーメン、ジューサーに豪快にフルーツを放り込んで作る生ジュース、出前で頼んだカツ丼など、どちらかといえば大ざっぱな料理が登場する。しかし、そこにたまらない魅力と、生きることへの意思と祈りを感じさせる小説なのだ。

結婚してわかったのは、生活とは能動的に創り、営み続けていくものだということ

生活とは何もしなくてものんびり流れていくつまらない日常なんかではなく、自分自身で能動的に創り上げ、営み続けないといけないものだということを、結婚前の私は知らなかった。
仕事に追われ、どんなに落ち込むことや辛いことがあっても、両親がつくり上げてくれた実家というぬくぬくとした基盤を飛び出した私は、自分と配偶者のふたりで、日々の生活を構築していくしかない。それは、時々投げやりになってしまうくらいには大変なことだった。
そんな折、学生の時に読んだ『キッチン』を、改めて手に取って読み返してみた時、心の琴線に触れてくるような素晴らしい文章が、あの時よりも鮮明に心にしみわたるのが分かった。

みかげと雄一の営む生活の尊さは、温かい食べ物を囲むから元気が出るとか、美味しい食べ物を食べて前を向くとか、それだけの意味に収まらなかったのだ。
言葉にならないほどつらい経験をしたふたりが、それでも何とか生きようと、お互いを死の淵から救い出そうとしたときに、大ざっぱなものでも、何かを作って食べようとすることは、ふたりの切実な生きる意志であると同時に、そのアクションを起こすことで生きることに光を見出そうとする、祈りのようなものなのだと感じた。

投げやりな生活になったときに思い出す。食べたいものを想像し、自分を立て直す

能動的に生活を営むというのは大変で面倒なことの連続で、しんどくなったら時々はそれを放り投げてもいいと思う。食べることだって、飲食店やコンビニで、他の人が作ってくれた食べ物を食べることで、空っぽの体に活力を充電できることも多いし、それは素晴らしいことだ。
だけど、投げやりな日々が続きすぎて、自分の体の中に入れる食べ物を惰性で摂取してしまうようになった時、はっと『キッチン』のことを思い出す。時々でも、自分ができる範囲でもいいから、自分が本当に食べたいと思えるものを想像して、作ってみようと、自分の力で自分を立て直してみようと思えるようになった。
疲れて形をなくしてしまったような体に、ああ何が食べたいかなと問いかける。食べたいものを思い浮かべ、ちょっとうっとりして、台所に立つ自分の姿を想像して、立ち上がる。生活が少しでも良いものになるように、前を向けるように、祈りを込めて。