働き始めた新卒の頃から、その次の会社に入って初めまでの3年くらいまでは、ていねいに自炊をしていた。
色んな料理、和食・中華・洋食、タイなどのアジアン料理など、いろんなものにチャレンジして、そこそこに食べることを楽しんでいた。
手間のかかる料理、エビチリとか、ハンバーグとか、ロールキャベツなどにも挑戦して、決してスマートかつ手際はよくないにしろ、自分の食べるものは、できる限り自分で作ることをしていた。

愛情こもった料理を忘れたら、食への喜びもなくなっていた

けれども、仕事に忙殺されていくうち、自炊すること自体が段々嫌いになってきた。やらなければいけないことが日に日に溜まっていき、日常生活にまで浸食し出したのだ。定時をとっくに過ぎたころに帰宅すると、もうへろへろになっていて、到底台所に立つ元気など残っていない。
それでも、コンビニのご飯は栄養とか満足度の面で乗り気ではなかったので、ひと手間でできるような、便利なレトルトや冷凍食品を使った。なんとか作ったけれど、お腹は満たせても、心が満たされないというか、自愛が足りないというか、全然おいしいと感じられなくなった。

そこから休職をした。休職したてのころは、空腹より、食べる行為自体へのめんどくささが勝ってしまっていた。それでも、真面目な通院と服薬やカウンセリング、また時間が有り余るほどあったおかげで、食事への意欲が湧いてくるようになった。毎食白いご飯をお茶碗一杯は食べられるようになったし、食べたあとに起こっていた胸やけや吐き気もなくなってきた。間食も食べるようになり、空腹で目が覚めることも多くなってきた。

一手間かけてじっくり向き合う、五感を使う料理のセラピー

食欲が戻り、料理ができる体力と気力が戻ってきたので、また料理をやってみることにした。レシピは、よく作っていた生姜焼きにした。以前、作ったときは、生姜焼き用の分厚いお肉を買ってしまって、出来上がりが固くてあまりおいしいと感じられなかった。なので、今回は、しゃぶしゃぶ用の薄い豚肉を買い、作ることにした。(しゃぶしゃぶ用を使うというのは、母から教わった)野菜もとりたかったので、玉ねぎを合わせることにした。

久しぶりに、それこそ半年ぶりくらいに包丁を握り、まず、玉ねぎを薄切りにした。指を切らないように慎重に。本当に久しぶりだったので、少し緊張してしまった。それから、豚肉も幅五センチくらいに切った。
フライパンに油をひいて、火にかける。切った玉ねぎを入れて、じっくり炒め始めた。徐々に飴色に、柔らかくなっていくフライパンの中を覗きながら、そうそう、これこれ、と昔の感覚を思い出していた。

どうしてわたしが自炊をしていたかといえば、この玉ねぎのように、ひと手間かけ、じっくり食べ物に向き合うことが好きだからだ。これから食べるものに、慈しみをもって向かい合う。すると、食材の変化や段々出来上がってくる料理の見た目、匂いを敏感に感じ取れる。わくわくする。1日疲れた身体の中で、じっと縮こまっていた五感が、徐々にざわざわとしだす。

それから、お腹すいた、と自分の空腹が、身体の真ん中で早く、早く、と急かす。まあ、待ちなさい、もうちょっとだから、と自分をいなしながら、料理することが好きだった。なにより、味見をして、おいしい、と喜べることが、上手くやれたじゃないか、と自分を褒めることが、なにより幸せだった。単に自分で作ったものを食べる、だけではない。忙しさに追われて、分かっていなかったけど、じっくり、自炊することは、わたしにとって自分自身を大事にする方法だったのだ。

やっぱり食べないと、できればその食べ物に向き合う時間を持たないと、人は元気が出ないのだと思う。食べすぎはよくないが、お腹がいっぱいになることはいい。ふう、と一息つける。
大概のことは、お腹いっぱい食べて、寝れば大丈夫、みたいなことをドラマで言っていた。本当にその通りだと思う。思うけれども、余裕がないと、お腹を満たすこと、またその満たすものに気を遣うことを忘れてしまいがちになる。
とりあえず、簡単でいいから、作る。食べる。お腹を満たす。それだけで前向きになって、なんとかなる気がすることを、覚えておきたい。

料理の本でも買ってみようかな。一つの食材に手間をかけるような、華やかさや派手さはないけれど、滋味深い、自分の疲れた体と心を満たす食事のレパートリーを、これからも増やしていきたいと思う。