自分のことも自分事に思えない。ましてや他人のことなんて…

私は例えば、幼稚園生の頃はトイレに行きたくても「せんせい、トイレ」なんて言えずにおもらししてしまうような子供だった。
大人になってからもそれは変わらず。レストランで注文が間違っていても黙ってしまうような、全然違う髪型に切られてもそれでいいことにしてしまうような、そんな人間だった。

私の父はいつもヘラヘラしていて、悩みごとを打ち明けたとしても笑ってごまかすような人だったし、母は頼ったとしても「そんなのは気持ちの持ちようだよ」と深く聞いてくれる人ではなかった。
そういう幼少期を過ごしたせいか、私はいつも自分のことなのに自分事じゃないように引いて物事を考える癖が染みついていたし、他人のことなんて興味がなくて当たり前、とさえ思っていた。

自分の声を“なかったこと”にしていたことに気が付いたけれど

それなのに、ある日突然私の心はバランスを崩した。電車に乗っていても突然涙がボロボロ流れてきて途中下車するようになり、体が重く、人と会うのがおっくうになった。食欲もなくなり、周りが心配するほどやせてしまった。
病院でもらった薬は眠くなるだけで、これでなんの解決になるんだろうかと、頼った自分がバカバカしく感じる日もあった。

そうまでなって初めて、私は自分が今までたくさんの自分の声を、きちんと聞いてやらずに“なかったこと”にしてしまっていたことに気が付いた。
私はきっと傷ついた気持ちも、悲しい気持ちも、うれしい気持ちでさえ、どこか自分の手が届かない場所に隠してしまっていた。そのことに気付いたとして、心のうちを話せるような友人もいない、家族にも素直に話せない、自分の薄っぺらな生き方に愕然とした。

あふれ出す自分の気持ちに、ただ相槌を打ってくれた人

そんな時、たまたま知り合いの男性に食事に誘われた。なんとなく気が向いて、自分のことを話してみる気持ちになった。
心が不調を抱えて1年、そろそろ出口が欲しかったのかもしれない。気が付くと私は今まであんなにも自分のことを話すのが苦手だったのに、次から次へと自分の気持ちがあふれ出て止まることがなかった。
彼はただ黙って、うんうん、と相槌を打ってくれた。それだけで、私はダメな自分がダメなまま肯定されたような気持になった。

彼とはそれから何度か会うようになり、私は会うたびに自分の話をした。全くの他人を頼って、私は水面に上がろうとしていた。何度も何度も溺れかけたが、彼はただただ相槌を打ってくれた。
そんなことを繰り返すうちに、私はよく笑うようになっていた。ゆっくりと、でも確実に私は自分を肯定するようになった。

今なら自信を持って言える。自分の選択は間違っていなかった

それから数年後、彼は私の人生のパートナーとなった。今思い返してみると、あの時彼には下心があって、それでひたすら私の話に耳を傾けてくれていたのかもしれない。それでもいい。あの日「変わりたい」と叫んでいた私に彼が変わるきっかけをくれたことには間違いないのだから。

今では私たちも、2人の娘の親になった。そのままでいいんだよ、というメッセージの元育てられている娘たちは自己主張のかたまりで、優しい父親は今では娘たちに24時間頼られ、時にはシモベのように使われている。
それでもそんな彼の顔は世界一幸せそうで、人に頼って生きる人生も悪くないのかな、とそう思わせてくれる。
そして、トイレに行きたいと言えない私を理解してくれる彼の仏のような横顔を見ると、あの日頼った自分の選択は間違いではなかったな、と心から思わせてくれる。