私の記憶に残るのは、父の怒声、弟の泣き声、母の目の奥の色

私が誰かを切実に頼ったとき、それは毎夜のある習慣である。

私が物心付く頃には、父親の暴力は日常茶飯事だった。
床に散らばるガラスの破片、タバコの煙と安酒のきついアルコールの匂い、弟の泣き叫ぶ声、苛立つ父の怒声、ベビーチェアの倒れる音。そして、母の体に毎日増える痣のどす黒い色。
悲しみなのか、怒りなのか、そのどちらをも携えた母の目の奥の暗い色。日常を取り巻く全ての事象に、父の暴力が色をつけた。

私にだけは手を上げず、ひたすら私だけを可愛がる父のその姿は、もはや人間というよりも魔物か何かに近いものがあったと思う。少なくとも私にはそう見えていた。

3つ離れた弟は重度の喘息もちで、それこそ生死を彷徨うような、危険な状態に晒されることがしょっちゅうだった。
今みたいに手軽に電動自転車なんかが買える時代じゃない。父は上記のとおりなので、もちろん自らが病院に連れて行くことなんかしなかった。
ごく普通のママチャリの後ろに弟を乗せ、山一つ越えたところにあるかかりつけの病院に、真夏の炎天下も、真冬の寒空の下も、朝だろうと昼だろうと夜だろうと関係なく、母は懸命に漕いで連れて行ってくれた。

一度入院が決まれば1ヶ月近くは出てこられない。まだ幼い弟に付き添って、母は小さなベッドの隅でその体を丸めて眠り、朝が来たらパートに出かけ、またママチャリで山を越えて病院に向かう。
退院したと思ったらまたぶり返して入院。高校に入る頃までは続いたと思う。

ずっと頼ることができなかった。いつしか、頼ることが苦手になった

両親は小学校低学年の頃に離婚した。今ほどひとり親世帯へのサポートも充実していない時代。母は幼子2人を文字通り女手一つで育て上げるため、懸命に働き、家事を行い、重病の弟の世話をしてくれた。
息つく暇なんて、恐らく微塵もなかっただろう。

そんな調子なので、私は幼い頃から母に頼ることを本能的に避けた。母と過ごせる時間はほとんどなかったので、物理的にもできなかった。
こどもの頭で思いつく限りの親離れをした。できる限り勉強をして、内申を上げて楽に進学できるよう大人たちが好む振る舞いを覚えた。
とにかく健康な私だけでも、母の手をこれ以上煩わせる要因になってはいけない、母の荷物をこれ以上増やしてはいけないと感じていた。大好きな母を守るには、早くおとなになることが必要だった。

だからだろうか。私は人を頼るということが本当に苦手なのだ。罪悪感に近いものがある。
何事も基本的に自分ひとりで済ましてしまいたい。誰かの手を煩わせるくらいなら、私が2倍、3倍頑張って手際よく片付ければどこにも支障が出ないだろう、それが誰にとっても最善であると思い込んでいる節がある。
だけれど、そもそもの私の性質はかなりののんびり屋の体たらく。できる限り楽をしてぼうっとしていたい。それを努力と上記の罪悪感で、何とかカバーしてやってきた。

ブロックした父に宛てて、ぐちゃぐちゃの感情を送り続けると心が軽くなる

でも、ある日とうとう頑張れなくなった。
堰を切ったように、人を頼ってこなかった時間、本当は誰かの手を握りながら眠りたかった、幼いあの頃の時間を取り戻したいとでも言いたげな、寂しさに襲われる夜が続くようになってしまった。
父の怒声も、割れたガラスの破片も、酒臭い吐息を身近に感じるあの不快感も、全てが今目の前にあるかのようにフラッシュバックする。
魔物のような父が嫌いだった。母の手を煩わせる弟が嫌いだった。弟にばかり手をかける母が嫌いだった。でも、大好きなのだ。

突然やってくる激流のように押し寄せる過去の感情に、毎夜溺れそうになる。
私は涙でぐちゃぐちゃになりながら、スマホの画面を操作する。今はブロックされてメッセージの届かない父へ、メッセージを送り続ける。そうするといくらか心が軽くなる。
届かない呪詛を送り続ける。懸命に。届かないと思っているからこそ送り続けられる。でも心のどこかでいつか全部届いて欲しいと願っている。

画面に映し出される、虚空に響くどこにも届かないそのメッセージたちが、今は私の唯一の頼りだ。