本は私にとって「人生という航路を切り開く羅針盤」です。
私は、小学校の頃、隣の席になった女の子より本の楽しみを教えてもらったあの日から、年齢と共に本との関わり方も変わってきました。
時には娯楽であり、時には人生の悩み相談室であり、時には言葉にしえなかった私の中の何かを発掘し、具現化する補助をしてくれる媒体でした。
そのため、悩むと必ず本屋に走って、目についた端から気になる本を籠に入れていき、自宅には山積みの本がたまる傾向があります。

「その行為がなぜ好きか」という視点を得たとき、頭の中が開けた

私の好きな本の一つに「天国と、とてつもない暇」(最果タヒ著)という詩集があります。
その詩集の中に、
「生きていることを忘れるためにあまいものをたべている、私というものを忘れるためにうつくしいものを見つめてみる」
という一節があります。
この一節を読んだその瞬間、私は頭の中がパーっと開けるのを感じました。旧約聖書のモーゼの海割りで道筋が開けたように。

私は、甘いものを口にすることも、美しいものをこの目で見ることもこのうえなく好きです。ただし、「その行為がなぜ好きか」という視点がなぜか欠けていました。
休日の多くの時間を好んでそういった行為に費やしてきたにも関わらず。おそらく、私の中で「好きなことが、おいしいものを食べること、美しいものを見つめること」であり、それ以上でもそれ以下でもないと思いこんでいたからだと思います。
ですが、この詩を読んでその根底には人生から離れる時間、私という個体を忘れる時間を得るためにそういった行為をしている可能性があることを、私はおのずと心のどこかで願っていたのかもしれないと思い至りました。
確かに味覚や視覚に意識が集中して心を奪われているその時間は、悩みも不安も、なんならそれを口にし、目にしている自我さえもどうでもよいとさえ言えるかもしれないと思いました。
その時、私は思ったのです。
人生とは、私にとっては辞書に掲載されているその言葉の意味そのものを噛み締めることではなく、自分なりに経験して再定義することかもしれないと。

本は感情や経験を具現化する手伝いをし、心の中に私なりの辞書を作る

私は不意に幼少期のときの記憶を思い返しました。
私は5歳からバイオリンを習っていたのですが、ちょうど少しずつ楽しさが見え始めてきた頃に先生から「音に切なさが足りない」と言われました。
当時の私には、「切なさ」という感情が分かりませんでした。とりあえず、母に聞き、辞書でも調べたように思います。それでも、そういう経験がなかったので、実感としてわかったとは到底思えませんでした。それから年齢や経験を積んで、やっと自分の中でなんとなくぼんやりとした形にはなりました。
先ほどの詩の一篇は、自身が経験してぼんやりしていることを具現化した一例です。
私の感じる「切なさ」の色やイメージを具現化する作品には巡り合えていませんが、本というのは私の人生の中の感情や経験を具現化する手伝いをしてくれて、心の中に私なりの辞書をいちから作ってくれるものなのだと思っています。
最果タヒさんの詩集は、そのペンネームと同じように「最も果てしない」解釈があると私は思っています。そのため、初めから時間をかけて、時には直感で開いたページを、たまにはあとがきから読み始めることもあります。

自分なりの解釈や定義を見つける。人生はまるで本を読んでいるよう

私は気に入ると何度も同じ作品を読むのですが、1回目に気に入った箇所をメモして感想を残していることがあります。紙に書いて本に挟んでいることもあれば、読書コミュニティのSNSに感想を投稿することもあります。2回目の読了後に1回目とは異なる箇所が刺さっていたり、同じ箇所でも異なる解釈をしていたりとそのときの自分の在り方で感じ方も多様です。
人生は一度きりだけれど、全ての言葉を体得することも自身の言葉で定義づけることもこの短い一生の中では困難です。だから、私は本を読んでいるように思います。自分なりの解釈や言葉の定義を見つけるために。