高校に入学し、担任と進路について話す最初の面談で、「あなたはこの本を読んだほうがいい」と一冊の本を紹介された。
ノートの端っこにメモをしたその本は、ジャン=ポール・サルトルが著した「嘔吐」という名の小説。タイトルから既に異様な空気をまとっていた。
すぐに読む気にはなれず、その本を実際に手に取ったのは、1ヶ月近く後だったと思う。

身に覚えがあった、自分が存在している意味がわからない喪失感

舞台はフランスのブーヴィルという港町。主人公のアントワーヌ・ロカンタンは、ある日突然、自分の身のまわりのありとあらゆるものに対する感覚の異変を感じとる。コップや、小石など今まで何気なくみていたものたちが、何の意味もなく、ただ存在しているということに吐き気を感じるのだ。

身のまわりのものたちへの嫌悪感に始まったその異変は、やがて人間、ロカンタン自身にも移っていく。他のものたちと同じように自分の存在も偶然、ただそこにあるだけのものでしかないとロカンタンが気づいたところで物語は終わる。

本を読み終えたとき、私はどこかほっとした気分になった。
主人公のロカンタンが、ものが実存していることへの吐き気に悩まされるようになったとき、そして自分自身の存在の必然性がみえなくなってしまったとき感じたであろう喪失感に、身に覚えがあったからだ。

自分の存在をぼんやりと考えることがあっても、誰にも話せなかった

少し違うかもしれないが、私も子どもの頃から自分の存在に思考を巡らせていた。
例えば、ふと人差し指を見たとき、今この瞬間(2022年X月X日X時X分X秒)に見えている人差し指はこの角度の人差し指だけ。私から見える存在としての人差し指は、今見えている人差し指そのものだが、それは本当に人差し指の存在を証明することになるだろうか。

そう考えると、今ここに存在している私も、たまたま今存在しているだけであって、そこに私以外の存在が加わった時、私以外の存在からみる私は不完全で、存在してると証明できるのだろうか。証明できないのならば、偶然存在しているだけの私が、存在する意味はなんだろう……。

一人でいるときこんなふうにぼんやりと考えては、自分を輪郭だけ残してくりぬかれたような、誰もいない暗くて寒い場所に突き落とされたような感覚になった。

恐ろしいと思いながらも、誰かに話そうとは思わなかった。話しても、私をかたちづくるイメージに「ちょっと変わったことを考えている子」というラベルが加わるだけだし、仮に理解してもらえても、それはそれでその人に見せている自分と、その人との関係性が変わってしまうと思ったからだ。

話せなかった感覚が認められたとき、自分を大切にできる気がした

私は、特に哲学を学んだことはないし、主人公のロカンタンのように吐き気を感じたこともない。それでもぼんやりもっていた自分の感覚が、この本によって認められ、ある意味存在を証明されたような気持ちになった。私はわたしとして、おそらくちゃんと存在している。

今後私が変わっていこうとも、その時点において私がちゃんと存在しているのだと思うと、いつも通りみんなの前でふるまう私も、一人で思考を巡らせこりずに喪失感を感じる私も、どちらも大切にできる。

意味があるかどうかは、今でもわからない。
だからこそ、私がわたしであることを恐れずに、これからも生きていく。