「ブス!土下座しろよ!」と言われた。
働いていたファミリーレストランで、私は慣れた口調で「あ、少々お待ち下さい」と返した。

ああいう客は、たまにいる。まともに会話する必要もないということは知っていた。
「店長。お客さんが、店長を呼べって言ってる」と、言われてもいないことをキッチンの奥の方を覗き込みながら言うと、眉間に皺を寄せている男性の顔が見えた。店長だ。
「ライスの単品がメニューにないので、ライスを食べるにはセットを頼むしかないって言ったらブチ切れてきました」
店長は渋々、客席に向かった。私は棚の隙間から、こっそり見ていた。

助けてくださいと、また言うことができなかった

私を怒鳴った客は、40歳前後の男性だった。メニューをまともに見ずに「ライスだけってないの?」と聞かれたので、「単品がなくて」と説明をしたら、怒り出した。
全国各地に出店しているチェーン店の末端の店員にそんな一生懸命に怒鳴ってみせたところで、私にはどうにもできないのに。
そう考えている間に、「何で単品がないんだ」から「ふざけるな」「おい、ブス」「謝れ!土下座しろ!」まで行き着いた。

店長がテーブルに辿り着くと、客の男性はきょとんとした。そりゃそうだ。
呼ばれて出て行っただけなのにきょとんとされて、店長もきょとんとしていた。そりゃそうだ。
不思議な空気が流れていたが、客は何事もなかったかのように店長にオーダーをした。女の私には怒鳴れるが、男の店長には何も言わない。

でも、私だって。
嘘はつけるけど、「助けて」って言わなかった。
「怖いので、代わってくれませんか?」
そう言ったって、良かったはずだ。
私は黙って、玉ねぎを刻み始めた。

気づいたのは「いつまでもヘルプを出さない性格でいるのだろう」ということ

こんな事、いつまで続けるのだろう。
学校の廊下を歩いていたらすれ違いざまに「死ね」と言われた時も、入ったばっかりの職場で鍋を投げつけられて青あざを作った時も、お金が足りなくて何十万も消費者金融から借りた時も、私は助けて欲しかった。
私自身がそれを許さない。
誰かに助けてもらえると思う事も、恥ずかしかった。
強くいなければいけないという気持ちも、強かった。
なぜなら、私を本当に救える人はどこにもいなくて、救ってもいいと言ってくれるような人もどこにもいないのだと、決めつけて疑わなかったから。
誰のことも頼ってはいけない。
誰かに迷惑をかけても許されるような人間ではない。

帰り道、緑が生い茂る坂道の向こうに、山がはっきりと見えた。遠く離れた故郷を思い出す。
一体、私はこんな事を、いつまで。
携帯を出し、連絡をした先は、夫の母だった。

夫の両親の「いつでも来て」の一言で、肩の荷がストンとおりた

夫の実家までは車で10分もかからない。
1人でお邪魔する事は今までなかったが、「遊びに行ってもいいですか?」と聞いたら、驚いていたが、喜んでくれた。メロンパンが美味しいと評判の、近くのパン屋さんに寄り、何個か買って持っていった。
今日は1人でいたくない。夫が帰る時間まで、もたない。今すぐ誰かに側にいて欲しかった。

お義母さんは庭に出て待っていてくれた。
メロンパンが入った袋を渡すと、「嬉しい」と笑ってくれた。少し経つと、出かけていたお義父さんが帰ってきて、3人でメロンパンをかじった。街で1番美味しいはずなのに、味はしなかった。
お義父さんが意を決したように、「何か話があったんじゃないのか?」と私に訊いた。普段はない急な訪問、心配をさせてしまった。
「いえ、ただ遊びに」と笑いながら首を横に振ることしかできなかった。「いつでも来て」と言う優しい2人の眼を見て、気付いた。

ありのまま、今日起こったことを話したとしたら。
私は嫌な思いをした、傷ついた、悲しい、怒っている、とすがりついたら。
お義母さんは「私も似たようなことあったよ」と手を繋いでくれ、お義父さんは「なんだよ、その人」と私以上に怒ってみせてくれる。
多分ではなく、絶対に。

この事を知るだけで、私は救われた。いや、本当は、ずっと前から知っていた。だからこうして、ささくれだっていた黒いものを溶かして消すために、2人の声と笑顔に頼りに来たのだ。
少し身体を緩めて、誰かによりかかってみても良いんだと、やっと解った。
帰る頃には、メロンパンは甘い味がする事を舌が思い出していた。