私はクリスチャンなのに、神社のお守りを持っている。
金ピカの達筆で「御守」と書かれた真っ赤なもの。
私にとってこのお守りは特別で、かけがえのない大切な宝物だ。
なぜなら、初めてお義母さんにもらったプレゼントだから。
このお守りは私にとって、家族の証だ。

私は好きな人がお参りしたいと言ったらどうするのだろう

私は小さい頃から家族全員がクリスチャンの中で育ち、神社や寺とは無縁の中で育ってきた。
日曜日には礼拝に行き、食事の前には神様に祈り、クリスマスにはキリストの生誕を祝った。
もちろん初詣なんて習慣はなく、お葬式で南無阿弥陀仏を唱えることもしなかった。
高校受験の時に色んな人からもらった御守りは、好奇心を抑え切れず中身を覗いて紙切れ一枚にがっかりしてみたり。
人一倍宗教と向き合ってきた自信はある。
特別困ったことはなかったけれど、思春期になると考えるようになった。
「私は好きな人がお参りしたいと言ったらどうするのだろう」
一緒に行く?それとも断る?宗派を変えるよう説得する?
私の親は同じ宗派だったけれど、私も同じ宗派の人としか結婚できないのだろうか。
これは意外と大きな悩みで、好きな人ができるたび、「この人はなにを信じてるんだろう」とおそるおそる探った。

お義母さんは、私の幸せを心から願ってくれているのだ

適当に折り合いをつけることを覚え始めたのは、随分大人になってからだ。
日本の風習のひとつ、だなんて観光客気分でおみくじを引いたり。
お賽銭をしたりお守りを買ったりはしなかったけど、恋人が何を信じていても尊重するよう努力していた。
慣れてしまえば些細なことで、結婚に踏み出そうとした時も彼が何を信じてるかは大して気にしていなかった。
そんな時、舞い込んできた彼の「厄除け話」。
聞けば彼は厄年で、お義母さんが是非厄除けをと言っている。
君も来る?と聞かれて私は考えもせず行く!と答えた。

当日、待ち合わせの神社には後厄のお義父さんとにこにこのお義母さんがいて、厄払いをみんなで受けると言う。
マズイ!どうしよう!内心焦りながら、神主さんの元へぞろぞろと。
「二礼二拍手一礼」と言われ、なんだかみんなを裏切っているような気分で行う。
無事終わった後には、お義母さんに「お守りは買わなくていいの?」と聞かれる。
正直に言うか言うまいか、悩みながらとりあえず苦笑い。
なあなあと流しつつ、その後喫茶店へみんなで向かった。

そこで渡されたのが、冒頭現れたお守り。
お義母さんが私の目を見つめて言う。
「これはね、なんにでも効くみたいなの。きっと、守ってくれるから。お守り、よかったら持っておいてね。」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
この人は、私の幸せを心から願ってくれているのだ。
ただの息子の恋人、という他人ではなく、自分の大切な人として自分の願いをお守りに託してくれている。
それが心底嬉しかった。
自然と「私の家は実はクリスチャンなんです」と私は言っていた。
「初詣も行ったことがなくて神社とは無縁だったんですが、今日、凄く興味深い体験ができました」
ご家族は驚いていたようだった。
「私、でも、お守り、嬉しかったです」
少し怯えながら、ドキドキしながら、つかえそうになりながら、その言葉を一生懸命伝えた。
みんな、私を見つめていた。
宗派なんて関係ないよ、と言うように、屈託のない笑顔で。

お互いに大事に想っていることは、この世界で唯一の真実

私は知った。
きっと本当に大切なことは宗派が一緒なことではなくて、相手のことを心から想えるかどうかなのだと。
目の前の人たちは、間違いなく私を大切に想ってくれていた。
家族のように、自分の子どものように、私が幸せであるようにと、さまざまな災いから守られますようにと、心から祈ってくれていた。
私は、こんな素敵な家族を持った彼のことを羨ましく思ったし、彼のことがもっと好きになった。
それ以上に彼の家族と、私は新しい家族になりたいと思っていた。

結婚は、相手との価値観が合わなければできないと言う。
お金や将来、仕事や義実家、その中には宗教も含まれているかもしれない。
けれど私は、今の自分を幸せに思う。
クリスチャンとして育った私と、神社にお参りする彼。
全然違っていても、お互いに大事に想っていることはきっと、この世界で唯一の真実だから。
お守りを握りしめながら、私はそう思った。