「メンヘラ」「重い」などの言葉がある今の世の中。
自分の心の中の弱い部分を人にさらけ出しにくい世の中だなと感じる。
「これ言ったらメンヘラだと思われるかな?」「こんなこと相談したら重いなって嫌われちゃうかな?」と。
私自身どちらかというと相談に乗ったり話を聞いたりする立場の方が多く、自分の悩みとかを人に話すのが苦手だった。
変にプライドがあったのかもしれない。
強がってたのかもしれない。
良い人ぶるのが得意だったのかもしれない。
いや、逆に言うと、そこまでひどく困ったり落ち込んだりすることがなくて恵まれていたんだと思う。

父から病気の告白。押しつぶされそうな現実を誰に話せばいいのだろう

24年間生きてきた私が「誰かを切実に頼ったとき」は、大切な家族の死を経験したとき。
大切な家族の死というのは大好きだった父だ。
私が19歳の時に急に病気が見つかった。
病気が見つかってから約2ヶ月で父は亡くなった。

父が生きている時は本当に仲がよく、思春期特有の「パパがお風呂入ったあと無理ー!」とか「洗濯物別にして!くさそう!」とかも一切なく、2人でよくお出かけもしていた。
父が私を心配して悲しませないように、病気のことを少し笑いながら打ち明けてきた日。
父が1番辛いに決まっているので絶対に父の前では泣かないと、お風呂の中で1人、ボロボロと浴槽に落ちていく自分の涙を見て決めた。

病気を打ち明けられてからの世界は、色を何色と認識できないような、大好きなご飯も無味無臭のような。
なんとも表現しがたいが、とにかく今までの世界とは全く違う場所に自分がいるような気がした。
きっと現実だと受け入れたくなかったんだと思う。
ただ、なんとなく19歳の私は父はもう長くないのだろうと察した。
父が病気になったところで時は止まってくれないし、何事もなかったかのように明日も明後日も毎日は進んでいくんだという現実に、心が押しつぶされそうになった。
家族の問題はとてもセンシティブだし、ましてや病気や死に関する話は人に会って開口一番にする話でもないし、誰に話していいかわからなかった。

震える指で連絡した友人からの返信は、今読み返しても涙が止まらない

そんな時、私の頭に1人の友人の姿が浮かんだ。
父が入院している病院に向かう電車に揺られながら、震える指を必死に動かして友人に連絡した。

このエッセイを書くにあたって、当時友人が送ってくれた返信を読み返した。
涙が止まらなかった。長文で綴られたその返信は、私が父が亡くなってから後悔しないように、父の病気から目を背けそうになっていた私の体を揺さぶり、しっかりと真っ直ぐ正してくれた。
友人がくれた「病気は本当に辛いけど、家族としっかり向き合う時間になる、あなたなら絶対に大丈夫だから」という言葉に救われた。
返信を見返して、いてもたってもいられずすぐ友人には感謝の連絡をしたけど、ここでも言わせて!本当にありがとう!

「頼る」って、ものすごく疲れるんだなと。
下手したら「頼られる」よりも。
自分の弱さとか痛みをさらけ出したら困らせるんじゃないかなとか思ったり。
だけど、自分のためを思って痛みを感じて一緒に乗り越えようとしてくれる人がたくさんいる。
辛い時に辛いと、はっきり声に出せる人が本当に強い人だなと。
人によって抱えてる不安とか痛みは違うので、完全に理解することはできないだろうけど、少しでも軽くできるような人間でありたい。