パジャマをスーツに着替え、薄い鞄を携えて出勤する。日中は日の当たるデスクでパソコンを叩き、昼休みにはプラスチックカップに入ったブラックコーヒーを飲む。仕事が終わればお酒を呑みながらデートして、帰宅した後は風呂上がりにマニキュアを塗りながら、茫洋と人生を思い描く。
……これが、私が子どもの頃に思い描いていた働く人の姿だった。
私にとっての仕事は「くるしい・きつい・もう辞めたい」
しかし、今の私はこんな風では全くない。
膨らんだ鞄を引きずって職場まで行く。もともとない知識を頭から絞りだすようにして仕事を片付ける。時に、連峰のようにうず高く積み上がった書類(時として雪崩を起こす)や地獄のような単純作業(溺れると体を睡魔に乗っ取られる)との闘いに身を捧げる。摂取するカフェインはリフレッシュの為なんかではなく、必要な動力源として脳に送り込むガソリンだ。
夜になり、急いで帰れば家事が私を待ち受けている。同居人の分も含めて食事を作って、洗濯を済ませ、フローリングを拭く。それが済めば勉強の為に本をちょっと開くも、眠気に押されてシャワーを浴び、速攻で眠る。
1日が24時間だなんて絶対に嘘だろうと思っている。勉強なんてちっとも進まない。生活の大半が、仕事で埋まっている。常に息をしているだけで精一杯の体力を使っている。
私は仕事に侵されている。それが幸せなのだと言う人もいるが、私は正直者なので、以下の通りに表現する。
くるしい。きつい。もう辞めたい。それが、私にとっての仕事だ。
私の人生は、白い休日と黒い仕事のボーダー模様のようだ
予定で真っ黒に染まるスケジュール帳は好きだ。働いている実感が得られる。
しかし同時に、私が好きな色は白色だ。
真っ白いスケジュール帳のちいさな枠内いっぱいを使って、寝転んでゴロゴロしていたい。好きに本を読んで手近な映画作品を鑑賞し、おいしいごはんを食べ、散歩する程度の真っ白な枠内に生きたい。
だが、働いて得る賃金がないと、私は本も映画館のチケットも買えないし、おいしいごはんも指を咥えて眺めているだけになる。すなわち、現在、私が悠然とした白色に身を染められるのは、休日のほんの一時だけになっている。
ほとんどの休日に、このようにして真っ白に洗われた私はまた、真っ黒な戦場である月曜日に果敢に挑む。
私の人生は黒色と白色のボーダー模様だ。けれど、同じ1週間の単位を使う人々で構成された社会の中にあっても、私とは異なる、真っ白な人生を着込んでいたり、ポップな黒い水玉模様が浮き出た人生観もあったりする。
人それぞれだ。また、白色と黒色の2色だけで人生が区切られているわけでもない。燃えるような朱色を頬に挿して精魂を傾けたり、キャンプファイアーが燃え尽きた後に拡がる夜空のような濃紺を感じたり。
何色の仕事をしたいのか。何色の自分で仕事ができるのか。
まだスタイリッシュな日々は遠いけど、日々を片付けていこう
スケジュール帳に示される枠で囲われたちいさな日常は、その姿かたち、色彩までもが時と場合によって大きく変化する。すべからく流転する万物の中で、我々も同じくカメレオンのように自分を操作する必要がある。迷彩色で己を雑事から隠すのもありだし、ネオンピンクに目立たせてみるのだって一種の戦略だ。
私はこれからもしばらく、あいも変わらず平穏且つ不穏なボーダー模様の世界に身を置いているのだろうけれど、時には澄んだ透明な色を目標に掲げ、また別の瞬間には、焦げついた茶色でいじける。
それはつまり、一種の自己表現なのだ。そうやって人知れず働くモチベーションを作り、自分らしくあれる道を模索する。
スタイリッシュで余裕のある進路はまだまだ拓けそうにないが、それでもまぁ、飽きずに日々を片付けていこうと思っている。