「親には頼りたくないから」
この言葉の裏の深さを考えるようになったのは、教員として働き始めてからだった。
いくら子どもたちが冗談のように軽快に口にしても、その真意の重みを推し量らずにはいられなかった。
安易に親に甘えられない……その辛さを彼女らから学ぶことになった。
当然のように親や兄弟に頼ってきた私。海外旅行の費用もねだった
私は両親ともに共働きの、ごくごく一般的な家庭で育った。兄弟も4人と多かったため、親以外でも上の兄弟には頼り、下には頼られるという環境が常だった。学費や留学費用は当たり前のように親が支払い、大学まで奨学金を始めとするいかなる借金を背負うこともなく、悠々自適に生きてきた。
全くもって親に頼ることは恥でも難しいことでもなく、どこかで「当然のこと」として受け入れてきたように思える。今思えば、なんて恵まれた環境だったのだろう。
一度、妹がアメリカへ留学する前に二人で旅行したいと思ったことがある。私自身もアメリカに留学した経験があったため、先に二人で旅行して、色々レクチャーしてあげたいと「姉らしく」思ったからである。
そこで私のとった行動はこうだ。アルバイトを増やし、旅行費用を貯めようと努めた。
しかし、この計画は思うようにいかず、予定していた日程が近づいても目標額には達する見通しが立たなかった。なので「子どもらしく」父親にお金を貸して欲しいと何の恥じらいもなくお願いした。妹のためなの!なーんて熱弁して。
一応、期日までに旅行費用を貯められなかった私の怠惰に対するお小言はいただいたが、翌日には目標金額が私の手元に入った。そして予定通りにフライトゥーアメリカ。お土産としてカルフォルニア産のワインに加えて一言。
「いつかお父さんもアメリカ行きたくなったら言ってね!通訳として『付いて』いってあげる!」
これが私の知っている親への頼り方だった。
相談に乗った生徒の涙の意味を、私は見誤っていた
その2年後に出会った、親を頼る存在とみなさない彼女たち。彼女たちの話を聞くたびに、穴があったら入りたいと何度思ったことか。
しかし、今でも彼女たちに抱くのは哀れみではなく敬意ではあることを前提において、つぶさに彼女たちが置かれている状況や彼女たち自身の考え方を観察すると、見えないようでくっきり浮かび上がる膜のようなものを感じてしまう。
私の受け持ったクラスで、友人関係に悩んでいる女子生徒の相談に乗った時、彼女は途中から涙くんでしまった。浅はかな思考でしか彼女の気持ちを読み取れなかった私は、そんなにこの悩みが重かったのかと読み取った。
しかし、後日もらった手紙には、普段大人に相談することに慣れていなかったため、話の途中でこの状況に温かさようなものを感じてしまったため涙が溢れたと書いていた。
そして手紙の終わりには「時間を取らせてしまってごめんなさい」。
こんなのおかしいよ、そう思った私は間違いだったのか。またしても世間知らずゆえの薄っぺらい感想だったのか。
頼ることができる人がいる、そのことさえ知ってもらえればと思っている
どちらにしろ、そういった思いで今日も一見楽しそうに過ごしている子ども、大人は確実に存在している。
私の経験や感想だけでカテゴライズするつもりは毛頭もない。ただ、彼らから手を差し伸ばされることを待っているつもりもない。誰にも頼ることができないことが悲しいことだと断言は絶対にしない。ただし、全く頼る経験のないまま大人になってほしいとも思えないのである。
「そう言えば学生時代に、頼られることを望んでいた先生がいたな。結局頼らなかったけどさ」
それで全然いい。頼ることのできる存在が世界にはいるんだということさえ知ってくれればいい。そう思って今日もつぶさに子どもたちを見守っている。