周りに流され、他人事のようだった就活。焦りばかりで

わたしはなんてだめな人間なんだろう、という思いがつねに頭の片隅にある。10年以上前から。
もう生きるのをやめてしまいたい、と思ったこともある。この世界からわたしが消えてしまえればいいのに、と願ったこともある。
それでも結局、わたしはずるずると生き延びてしまっている。意図的なものであろうとなかろうと、他者から発せられる些細な言葉で傷ついてしまうことがたくさんある。そんなふうにいじいじと苦しんでしまう自分がずっときらいだった。

2年前、わたしは難病患者になった。大学3年生のときだった。

1年間の海外留学をしたが、とくに何も得られなかった。帰国して、周りに流されるように就職活動のようなものをはじめた。
不安はあったが、どこか他人事だった。短期間のインターンシップにすら受からなかったし、エントリーシートに何を書けばいいのかまるでわからなかった。
勉強をするのは苦ではなかった。論文を読んだりレポートを書いたりするのが好きだった。自分がおもしろいと思える授業に出て、先生の話を聞いて、自分なりに考えをめぐらせるのが好きだった。
でも、安心できる居場所はどこにもなかった。わたしが居場所を得るためには、競争を勝ち抜かなければならなかった。どんどん焦りばかりが積み重なっていった。

ストレスが原因と思っていた体調不良は、難病だった

そんなとき、ストレスのせいだと思い込んでいた原因不明の体調不良が悪化して、いきついた大学病院ではじめて病名を聞かされた。あのときわたしは、たしかに悲しかった。聞いたこともない病気。しかも一生治ることのない難病。

一日も早い入院を勧めるお医者さんの声が耳を通り抜けて、わたしは、ああ助かった、と思ったのだ。
もう就職活動をしなくていいんだ。嫌味を言ってくる同期に会わなくていいんだ。
これまでの生活が当たり前ではなくなって、さまざまな制限が加わるけれど、わたしは、わたしの好きなことを表明していいんだ。

だからといって、すぐに病気を受け入れることはできなかった。いまですら、受け入れられているのか、わからない。気持ちの整理ができないまま、わたしは11階の個室に入院することに決まった。そこが、およそ2か月半の間、わたしの城になった。

言葉を交わすのは、面会に来る両親と、お医者さんたちと、看護師さんたちと、リハビリのトレーナーさんだけ。数え切れない検査や数日おきの採血はつらかった。食事内容の制限や薬の副作用は苦しかった。

私を「かわいそうな子」のままにさせなかったゼミの先生

大学の授業の単位はほとんど落とすことになった。事情を知らない同期からは悪ふざけのようなLINEが送られてきた。それでも、わたしは、わたしの好きなものを隠さずにいられた。
それだけで、じゅうぶんだった。わたしは、もうわたしに嘘をつかなくてよくなった。

そう思えるようになったのは、ゼミの先生のおかげだった。先生がいなかったら、きっとどこかで心がぽっきりと折れてしまっていたと思う。
病気がわかってすぐに先生にメールをした。自分が難病患者になってしまったという事実は、わたしにとって大きな衝撃だった。うまく言葉にあらわすことのできない感情をもてあました。

けれど先生は、わたしをただ「かわいそうな子」のままにはさせなかった。ゼミの課題を、入院中のわたしにも提出させてくれた(後日、やさしくはない評価とていねいなコメントをもらった)。わたしが読んだほうがいい本を紹介してくれた(入院中に読み終えることはとうていできなかった)。わたしが抱えていた感情を思想的に問うことができると教えてくれた(年度末の忙しい時期にもかかわらず長文のメールを何通もくれた)。

先生がわたしの手を引いてくれた。居場所をくれた。道があると示してくれた。その道の果ては見えなかったけれど、わたしの足もとを照らしてくれた。
つらくても苦しくても、先生からもらった言葉を信じて、ひたすらまっすぐに進むことなら、きっとわたしにもできると思えた。

病室の窓から眺めた外の世界に、また出て行きたいと思えるように

とはいえ、体力と免疫力の落ちたわたしは、まだ外には一歩も出られなかった。11階の病室の窓から外を眺めつづけた。数か月前は逃げ出したくて仕方のなかった世界に、また出ていきたいと思えるようになった。

わたしは、女で、文系で、地方の出身だ。「健常者」とはいえない身体をもっている。若いことを売りにできるような年齢でもなくなった。一般的なかわいらしさも兼ね備えていない。たいてい何かに対して怒ったり悲しんだりしてばかりだ。

けれど、わたしが困難に直面するとき、わたしが何かを考えつづけるかぎり、わたしは「ひとり」ではないと知っている。いまでも、家までの帰り道を泣きながら歩くこともある。わたしはこんなこともできない、と落ち込むこともある。それでも、わたしは、わたしの人生をあきらめない。
わたしがいま生きているのは、あの11階の病室から、もう一度はじめた人生だ。