福山雅治の名曲『聖域』で、お金への疑問や考えを綴った歌詞がある。
ドラマの主題歌でもあるこの曲の歌詞を、福山本人が書いたことを知ったときには思わず唸ってしまった。もちろん、彼が実績のあるシンガーソングライターだと承知の上ではあったのだが、こうも何者にでもなれるのかと感嘆した。
これは太宰治の短編『皮膚と心』を初めて読んだときに似た感覚だった。自分でも輪郭があやふやだった感情が掘り起こされるような不思議な体験。その上、境遇が全く異なる人間にそのような影響を与えられるあたり、両人の力量は言わずもがなといったところである。
エッセイを書くきっかけもお金。文章を書くにもお金が必要だ
閑話休題、お金の話に戻ろう。
私自身、浪費家というほどでもないが、節約や節税に明るいというわけでもない。お金のことを考えなくていいほど死ぬほど欲しいと願う歌詞に、笑ってしまうくらい同意する(仮に「死ぬほど」のお金を得たとしても、そこにこれまた「死ぬほど」の税金が発生するであろうことにも笑ってしまう)。
あけすけに言ってしまえば、私がエッセイを書こうと思ったきっかけだって、掲載されれば幾ばくかの賞金が手に入るからだ。純真な心でエッセイを書いている皆さん、編集部の皆さん、本当にすみません。
何をするにもお金がかかる。こうやって文章を書くのだって、紙とペン、もしくは文字を入力できる電子機器が必要だ。
言うまでもなく国内で1万円札の価値は1万円だが、人によって1万円の価値は異なる。はした金と感じる人もいれば、大金と感じる人もいる。ちなみに私は後者である。
しかし、この1万円を「大好きなアーティストのライブチケット」の価格として考えたらどうだろう。ライブの規模や座席位置にも寄るだろうが、私ならば「まあ安いかな」と財布の紐を緩める。「いくら大好きなアーティストでも1万円はちょっと……」と躊躇する人がいるかもしれない。ライブの全公演分のチケットを購入する人もいるかもしれない。誰が偉い・偉くない、正しい・正しくないの問題ではなく、全ては個々人の価値観に収束する。
「稼げないのは頑張っていないからだ」と自分を追い詰める必要はない
価値観がお金に与える印象は、もちろん賃金でも同様のことが言える。この業務内容でこの給料は安い、もしくは高い。そもそも沢山稼ぎたい、はたまた大して稼げなくてもいい。
様々な意見があって然りだが、一つ気に留めておかなくてはならない点があると思う。それは、個人の頑張りと給与が比例するとは限らないということだ。
業界や業種、個々の企業によっても異なるだろうが、苦労したから稼げる、逆を言えば「苦労をしていないから稼げない」のようなある種の自己責任論に陥らないように留意しなければならないと感じる。人力でも機械でもできる作業を、人力でやったからといって必ずしも付加価値が生まれるわけではない。
要するに、「稼げないのは私が頑張っていないからだ」と自分を追い詰める必要はない。環境や社会情勢によって左右される面もある上に、結局は自分の価値観次第なのだ。1万円が高く、もしくは安く感じたときのように。
冒頭に出した曲も、このように歌っている。誰かの意見に振り回されそうになったら、何度でもこの曲を聴こうと思う。