頼る前は、無人の廊下に呼び出される。
少女漫画の中で、体育館裏に呼び出されて詰問されるシーンがよくあるが、人気のない場所は実は慰めるためにあるのだと思う。
廊下に私を呼び出した友人は、私のために行動してくれた
私は廊下に二回、呼び出されたことがある。建物は違うけれど、どちらも廊下で、そのどちらとも同じ内容だった。
集団の中でじくじくと吊るし上げるような嫌がらせをうけていた私に、どうしてそうなったのか友人が尋ねてくれた。場所も人も一回目と二回目とでは全く違うのに、状況が似通っていることが不思議だった。
友人に事情を話す中で、いじめっ子の顔が厭でも過る。セーターで包んだ手の甲から指先がすうっと冷えた。
卒業前の冬。廊下に張り出されたプリント、階段、クリーム色の壁、床の冷気が上靴のゴムを通してせり上がってくる。あちこちがひりつく頃に何もそんな話をしなくてもいいのにと内心つっこむ自分がいた。
動揺や緊張が最高潮まで達すると、もう一人の自分が俯瞰しているような感覚に陥る。精神を逃がしているのだと思う。
友人は珍しく自発的に愚痴らない私を心配していた。私の顔色の悪さに気づいて、行動に移してくれただけで私は胸が熱くなった。
私が厭だと感じることは、誰にも共感できないのだと思っていた。今でも多少そう思っている。
些細なことで思いつめる癖があるのだ。友人に素直に打ち明けたことで、いじめは共通認識なのだとわかった。私の感性は異常ではないことを友人が教えてくれた。
私が悪いか悪くないかで、親しかった人たちが激しく言い争っていた
嫌がらせがやまなくとも、いじめっ子との関係修復ができなくとも、もう十分だった。にもかかわらず、結局は二回ともいじめっ子と正面衝突することになってしまった。
いじめっ子は私と友人が協力して反旗をひるがえそうとしているのに勘づいて、釘を刺してきた。私がうまく言葉を紡げなくなって、すぐさま友人が弁護を始める。頭の上で怒声が飛び交う。罪悪感といら立ちが交互に重なった。
人を頼ったことで、胃がキリキリしたのはこの二回だけだ。
私が悪いか悪くないかで、親しい間柄だった人間が激しく言い争っている。肝が冷えるどころか、その場にある物を全てなぎ倒して逃走を図りたい光景であった。
そういった中でも、偶然居合わせた傍観者は嫌がらせの最中と同じく、じっと黙ってこっちを見ているだけだった。どちらが果たして正しいのか、悪いのか。頭の中で電卓を弾いているような眼球の動きに私はどうもじれったいような、冷水をぶっかけたいような気分になった。
いじめっ子と友人のやりとりは長かった。できる限りのことはやった。
敵か味方か、きっぱりと分けられることはあまりにも少ない
いじめっ子は一切非を認めず、謝らなかった。友人二人と私は泣いて怒ることまでしたのに。いじめっ子は、傷もついていない様子で去っていった。友人の、力になれなかった、という落胆だけが残った。
その後も味方になった友人たちは、いじめっ子と衝突前と変わらず仲良くしていた。ひどく争ったことで、人間関係を壊さなくてよかったと思うのと同時に、友人もいじめっ子と同類である部分を持ち合わせているのだと思わされた。
便宜上、味方とこれまで表現してきたが、敵味方、あちら側こちら側、ましてや善悪などときっぱりと分けられることはあまりにも少ない。だからこそ、そんな声を上げづらい状況で私に手を差し伸べてくれた友人には感謝しかない。
これらの出来事によって、いじめの傍観者はいじめっ子の味方であるという確信を奇しくも強めることとなった。甘え上手で堪え性のない私が、甘えられずに耐えた暴力を傍観せずに掬い上げて、攻防戦まで繰り広げてくれたことは私の人生において救いである。
友人二人に今の私が返せることがあるとすれば、何があっても二人の味方でいることと、いつでも頼ってもらえる体勢でいることだと思う。