帰り際、「あなたは、立つと意外と背が小さいんですね」と言われた。
意外と、というのは、話していると大人っぽいから、小柄な体型とのギャップを感じるらしい。わたしの言葉をじっと待ってくれる人とお茶を飲むと、わたしはつい自分の思考回路を丁寧に丁寧に解説しようとするのに夢中になってしまい、思いもよらず、落ち着いた、大人っぽい口調になってしまっているようだ。
七五三の撮影。私を笑わせようとするその人を、冷めた目で睨みつけた
だから逆に、相手から少し難しい質問や、自分がまだ経験したことのない話題を投げかけられると焦る。焦って知ったかぶりをすることもある。
わたしがまだ20代そこそこの学生であることを、相手は忘れてしまっているんじゃないかと、ときどき心配になる。もう少しだけ、子ども扱いしてくれたほうが気が楽なんだけどな。
七五三の記念撮影で、写真館に連れて来られた。わたしは写真を撮られる用事がいつも憂鬱だった。なんで別に何もおもしろくないのに、笑わなければいけないの、と思っていた。
しかし、そんな不満を言葉にすることすらできなくて、ただひたすら黙っていた。うさぎのぬいぐるみを持ったおばさんがカメラの横に立ち、「お母さんのおしりは大きいでしゅか〜」「お母さんのパンツは大きいでしゅか〜」と甲高い声を響かせていた。
着物の帯で締め付けられているわたしは、口紅の付着した自分の唇を舐めながら、冷めた目でその人を睨みつけ続けた。
わたしにカメラを向けてくる大人はいつもそうだ。おしりとかパンツとかを連呼しておけば子どもは笑うとでも思っているんだろうか?全っ然おもしろくないから!子ども扱いしないで!と、今の自分なら、言葉を持っていない7歳の思いを代弁してあげられるのに。
塾講師の仕事が大人たちのおままごとに感じ、辞めることにした
わたしは大学進学と同時に、学習塾で講師のアルバイトを始めた。なぜ塾講を選んだかというと、最寄駅から近いのと、勉強が苦手でないという、それだけの理由だった。
なんだかんだで気付けば3年経っていた。小学生や中学生に勉強を教える、というより、一緒に勉強するのは案外楽しいと思えた。誰が大人か子どもかなんて関係なく、わたしはただの“先生”で、相手は一人の“生徒”。授業の80分間、机に広げてある問題文に向き合っていれば、自ずと信頼関係は築かれていく。
しかし残念だけれど、わたしはもう塾でのアルバイトを辞めることにした。
ここは限りなく利益を追求する大人たちと、最大限の見返りを求める大人たちによる、終わりの見えない“おままごと”にしか見えなくて、わたしも生徒もその“おままごと”の単なる登場人物でしかなくて、もううんざりだったから。
わたしだって、生活費を稼ぐためにアルバイトをしていたけれど、お金以上に、わたしと生徒との関係は、もっと純粋で対等だと信じていた。
子どもと大人の中間地点で、両極から逃げ続けるのだろうか
子ども扱いされるのが嫌でたまらなかった、7歳のわたし。大人っぽいと思われるのが少し窮屈である、21歳のわたし。
わたしは、子どもでも大人でもない。何者でもないわたしでいさせてくれると信じていた場所は、結局、自分の目の前のことしか考えていない大人による大人のための場所にすぎなかった。
わたしは、これからもずっと、子どもと大人の中間地点で、両極から逃げ続けるのだろうか。