私は中国出身の日本4年目の留学生です。
去年はじめて、国連NGOである世界平和女性連合(WFWP)日本支部が主催し、日本各地で毎年行われる女子留学生日本語弁論大会というイベントを知り、応募しました。

外国人である私の原稿への指摘は、文法ではなく「言い方」ばかりだった

「弁論」という言葉について、私は「debate」や「argue」など、相手を論駁することを意味すると理解していました。なので、主張を強く打ち出すために、「なのだ」だったり「ではないか」だったりなどの言い方を応募の原稿で使いました。
また、女性中心の国連NGOだから、もちろん女性の、世界の半分を支えているような力強さのアピールは、望ましいものとして評価されるだろうと思いました。

外国人が書いた文章なので、原稿はまず主催側の事務担当者たちがネイティブチェックをします。応募者は修正意見を踏まえて直した後の原稿を使って本番に臨むことになっています。それは地区大会の本番の約二、三週間前に地区の事務所で対面で行われ、担当者たちは修正意見を出しながら、一緒に読み上げの練習もしてくれます。

事前チェック当日、私は事務所を訪れました。非常に意外なことに、私を待っていたのは日本語の文法とか言い回しとかを直すようにといった意見ではなく、言い方を直そう、のようなダメ出しがほとんどでした。

「だ」は強いから、敬語の「です」を使いましょうね。
「ではないか」じゃなくて「と思います」で、推すんじゃなくて私はそう考えていますということを伝えればいいですね。
「われわれ」は男っぽいから「わたしたち」にしましょう。
そんなに硬く言わなくて、柔らかーくね、私はこういうふうに思っています、みたいな感じでいきましょう。

一言一句そのまま言われたわけではありませんが、こんな指摘がありました。

男女の権利平等を訴えている国連NGOから求められた「女性らしさ」

これは私には実に相当なショックでした。本当に国連のNGOかと疑ったぐらいのショックでした。
男女権利平等に昔から力を入れており、そして核心的なアイデアにもなっているはずの国連、そのメンバーが、ある言葉が「男っぽい」という、つまり言葉に対する男性の独占(colony)を認めるとは思いもよらなかった。
そして、言葉遣いにも関連して、女性に「硬くしない、柔らかく、優しく」話すことを求める、つまりいわゆる「女らしさ」で女性一人一人を型にはめ込むような姿勢も見られました。
全てが私のイメージする国連とはあまりにもほど遠かったので、今でもその時のショックが忘れられません。

でも「弁論」だから強く打ち出した方がいいんじゃないかと私が弁解しますと、「弁論」はdebateとかじゃなくスピーチspeechだと、講演会だと知らされました。自分の誤解だったようです。
でも、スピーチだとしても、私はこう考えていますと普通に言うより、私はこう主張する、そして私の主張に根拠がある、だから私の主張は妥当である、というような力強い伝え方もスピーチとして大事だという意思を担当者に伝えると、いや、やっぱりね、そんなに硬くしないで、柔らかくね、優しくいった方がいいですよと否定されました。

原稿への指摘は受け入れた私だったが、低い地声は変えずに大会に臨んだ

応募者側として、私は強く反抗することはできませんでした。原稿をある程度事務担当者の言われたように直しました。この意味で「わきまえた」ことになるかもしれません。
でも、ある程度といったように、もともと私の使う一つ一つの文や言葉遣いに丸くできない硬さと強さが入っていますので、一部の文の文末だけ言われた通り修正は加えたとしても、全体の性格は変わりません。
更に、私はあえてトーンを上げずに話すことに気をかけています。私が見る限り、女性はだいたいしゃべる時に地声のまま出すのではなく、声を上げて話していて、時としてファルセットが出ることもあります。担当者が私の原稿を読み上げてくれた時も、やんわりとした明るい声でした。
声の明るさが可愛らしさ、女らしさと繋がるのであれば、私はそもそも地声が低いので、無理に声を上げず、あえて慣例に反し、権力や力、頼もしさに繋がるロートーンで(声の高さとそれが与える印象に関しての研究は確かに出ていると思います。または、テリーザ・メイ元イギリス首相やメルケル元ドイツ首相の公開講演を参照しても明らかです)、大会本番に臨みましたし、同調圧力に抗いながら普段もそうしています。

結果参加賞しかもらえなかったのですが、ショックを経験できたのでよかったと思います。
このように、自分はやっぱり心の中ではまだ角が丸くなりきっておらず、わきまえない意志があることを、このことを通して改めて実感しました。