私は「つまらない大人」になってしまったのだろうか。

子どもたちが目を輝かせて観ていた映画は、23歳を迎える私にも刺さった

先日、映画「リトルプリンス 星の王子さまと私」を観て抱いた感想である。
フランスの小説「星の王子さま」をモチーフにして制作されたこの映画。子ども向けアニメーション映画と思い、年末に親戚の子どもたちと一緒に見始めたのだが、子どもたちが目を輝かせて映画に見入る一方、今年23歳を迎える私には鋭く刺さるメッセージが多々あり、不覚にも泣いてしまった。

舞台は現代、名門校合格に向けて母が計画した分刻みのスケジュールにしたがって毎日を過ごす女の子が主人公である。
母が仕事に出ている間、家で勉強に勤しむ女の子であったが、ある日、ひょんなことから隣に住むおじいさん飛行士と出会い、星の王子さまの物語を聞かされる。
最初は、おじいさんのことを母と自身の計画を邪魔する厄介者としか捉えていなかったが、物語の続きがどうしても気になり、次第に母の計画をすり抜けおじいさんのもとへ通うようになる……というストーリーラインだ。
慣れ親しんだ「星の王子さま」がアニメーションとなって動いていることに感動しつつ、星の王子さまの純粋な、それでいて辛辣な「つまらない大人」に対する疑問に私はずいぶんなダメージを受けた。

小さいときになんのフィルターも通さずに世界を見ていたこととか、分からないことや知らないことがいっぱいで知りたくて知りたくてたくさん聞いたり考えたこととか、自分のほしいものや大切にしたいものにまっすぐに向き合っていたこととか、そういうことを大人になったらすっかり忘れてしまうのではないか、忘れてしまったら「つまらない大人」になってしまうのではないか、というのがこの映画の一つのテーマである。

大人とは、子どものころに見えなかったものと折り合いをつけること

映画のおじいさんのように、特に働きもせず自作飛行機を飛ばしては失敗して、を繰り返して生きる様は、「子ども心を忘れていない」と言えば聞こえがいいが、実際多くの人には「社会不適合者」「変人」としてのレッテルを貼られており、社会全体から孤立しているようにも見える。
現実では、映画の中のおじいさんのように生きられることは稀であり、夢を諦めて生活を送るための仕事をして稼がなくてはならないことがほとんどである。

私たちは、社会の見えないルールとか、他人からの期待とか、同調圧力とか、子どものときには見えていなかったものが段々見えるようになり、それと折り合いを付けていくことで社会に馴染み、所謂「大人」になっていくのだ。

このような思考をすること自体「つまらない大人」なのかもしれないが、現実に折り合いをつけて社会に馴染むことが必ずしも「つまらない」かというと、そんなことはないと私は信じている。大人になってから見つけた楽しいことも沢山あるし、大人になったから今はもう戻ることができない「こども」が輝いて見えることもあるのだと思う。

それに、忙しくて余裕がない毎日を送りながらも、昔つけていた日記、友達と沢山交換し合った手紙、大好きだった本、もっと曖昧なもの、例えばふとした匂いや味をきっかけに思い出を蘇らせることはできる。
そうしためくるめく毎日の中に一瞬入り込んでくる子ども時代の思い出を見過ごさずにすくい取ることができれば、昔をすっかり忘れてしまうなんてことはなくなるのではないか。

「大人=つまらない」にしないために、今を精一杯生ていこう

映画をきっかけにずいぶんと「大人」になってしまった、社会の価値観に取り込まれてしまった自分に気が付き少し落ち込んだが、大人には大人の楽しいことが沢山あるし、小さなことをきっかけに子どものときに感じていた気持ちも思い出せるのだから、大人イコールつまらない、なんてこともないなと思う。

ただ、小学生のときには小学生の楽しみ、中学生の時は中学生の楽しみ、高校生の時は高校生の時の楽しみがあって、その時代を過ぎてしまうと同じ楽しみを取り戻すことがなかなか難しいことを考えると、自分のライフステージに合った楽しみを楽しみ切ることが重要なのかもしれない。
もう取り戻せない「昔」にとらわれることなく、今を精一杯生きたいと思う。