誰かに認めて欲しい、他人の評価が欲しいのは大人も同じ

子供の頃、大人に褒められるように振る舞うことが、正しく生きるということなのだと思っていました。自分のやりたいことを素直に言ったところで、怒られたり、否定されるということが分かっていたし、その時の悲しいような切ないような気持ちに耐えられなかったからです。だから、自分の意思決定の基準は、「大人に怒られないこと」だったと記憶しています。(我ながらどんな子供だよ…)

大人と呼ばれる年代になった今、周りを見渡してみると、私が子供の頃褒めて欲しかった大人達は、意外と子供のままのように見えます。褒めてもらいたい、認めてもらいたい、自分のワガママは叶えたいけど、人には嫌われたくない。悪いことやずるいことをする人は許せない、でも自分の過ちは許してほしい。

大人になったら、誰かに認められたい、みたいな寂しさや渇望は無くなるんだと思ってました。大人になったら、ちょっとのことでは傷つかないし、強くなれるものなんだと思っていました。でも実際は逆で、子供の頃より傷つく機会は増える。大人になればなるほど、誰かにもっと認めてもらいたいし、でも認めてもらえることなんてほとんど無い。
大人になると、子供の頃には無かった寂しさが募って、さらに他人からの評価が欲しいのに、人は簡単に自分を肯定なんてしてくれなくて。
なんだ、大人になっても、苦しいままじゃん。って思いました。私が褒められたかった大人達って、子供の頃の私と同じ苦しみを感じていたんだって。

褒められたかった子どもだった私は、他人を受け入れられる大人になりたい

そもそも、私はどうして大人に褒められたかったんだっけ。私は、自分の夢や考えを否定されるのがすごく悲しかったんだ。私も誰かに、子供ながらに肯定されたかったんだ。大人の都合で「それはダメ」「それはあなたのためにはならない」とか禁止されるのではなくて、「やってごらん」「いい考えだね」「面白そうだね」って、寄り添ってもらいたかったのかもしれない。私の選択を、私という人となりを、「大人」に肯定してほしかったんだった。そしてきっと今も、そんな「大人」を求めてやまないのです。

だから、私にとっての「大人」はそういう人なんだと思う。価値観の違う他人を受け入れられる人。他人の決定に寄り添って、見守ることが出来る人。年齢は関係なく、自分の今までの経験を「自分以外」を尊重するためのエネルギーに昇華できる人。

じゃあそんな「大人」に私がなりたい、子供の頃、大人に求めた「大人」でありたい、と思うのですが、そのためには、まず自分に対して、そうあることが必要なんじゃないかとも思うのです。自分が完璧じゃなくても、思ったように進めなくても、自分を許せる力が必要だって。

「大人」になれない自分を許し、「大人」になるよう努力したい

だって、「大人」になれない自分を許せなかったら、「大人」になれない他の大人も許せるはずがなくて、そしたら私はただ年齢だけが根拠の大人と呼ばれる人間なだけになってしまう。
上手く「大人」になれなくてもいい、でも明日は「大人」でいられるように努力してみたい。そんな自分の人間臭さも認めてあげられるのも、「大人」なんだと思う。

だから私と「大人」の距離感は、今日も近くて遠い。私は子供になったり、「大人」になったり。「大人」になれない自分も、許してあげたい。そして、「大人」になれない大人も、許してあげたい。でも、「大人」になりたい私を、諦めたくもないのです。