人より自己評価が低いとは思わないけれど、特段高いわけでもない。自己評価なんて他人の声でいとも容易く変化する。
誰かに「ブス」と言われたら、私ってブスなんだと思うし、別の誰かに「可愛いね」と言われたら、私って可愛いのかもしれないと思う。人間って、少なくとも日本人って、そういう人が多いのではないだろうか。
小学校高学年の頃の自己肯定感が低くて、自分のことが大嫌いだった
私の自己肯定感の礎は、小学生のときに築かれた。この世に生を受けて20年経つが、小学校高学年の頃より自己肯定感が低かった時期は未だ訪れていない。
あの頃の私は母親のことが嫌いで、そんな母親の血が流れている自分のことはもっと嫌いだった。
さらには誰かを嫌いになると、その人の嫌いな部分はどこかを考えて、自分にも同じような部分があるのではないかと考えてしまう。誰かを嫌いになる度に、どんどん深く自分のことが嫌いになるという負のスパイラルに陥っていたのだ。
また、自分のことが嫌いだと、自分と同じような欠点を持っている人にも優しくできなくなってしまうことにも気づいていた。誰かに褒めてもらえたとしても、そんなの、私の悪い面を全部知らないから言えることだと、素直に受け止めることができなかった。
他人に「死ね」と言えないのに、自分に思ってしまうのは何故だろう?
そんな私が自分のことを肯定できるようになったのは、何がきっかけだったろう。たしか小学校6年生の冬、同じクラスの友達に「そんなに自分のことを無下にしなくていい」と言われたことだったように思う。
自分以外の人には親切にするのに、自分自身には親切にしないのは何故だろう? 他人に「死ね」と言ってはいけないのに、自分には「死んでしまえ」と思ってしまうのは何故だろう? 自分と一番近くにいるのは紛れもない自分自身で、自分の悪いところは他人には見えないようなところまで一番よく知っている。
他人と接するときは、その人がどんなに意地悪な人でもまずその人の良いところを探そうとするのに、どうして自分のことは悪い面ばかりを見てしまっているのだろう? 他人を大切にするように、自分を大切にしなくていい理由はどこにあるのだろう? そう気づいたとき、私の自己肯定感に大きな変化が訪れた。
私は基本的に誰かに褒められたときくらいしか、自分のことを肯定できない。文章を書くことが得意だと言えるようになったのは、中学校時代の先生に褒めてもらえたからだし、最近は彼氏に「可愛い」と言ってもらえるから自分の容姿にも自信が持てている。
どんな人だろうと自分を「肯定して」いいし、自分に優しくしてもいい
だけど、人に言われてそれを素直に自信に変えられるようになったのは確実に、根本的なところで自分を大切にできるようになったからだと思う。どんな人だろうと自分を肯定していいし、他人にするように自分に優しくしてもいい。当たり前だと言う人もいるかもしれないが、私にとっては大きな気づきだ。
今でも誰かに否定をされたら自信を失うし、無条件に自分を肯定できるほどまだ強くはなれないが、誰かの力を借りてでも自分を肯定できるようになったことで、他人を素直に認められるようになった。
むしろ欠点を受け入れて、自分一人でできないことは誰かに頼ることができるようになった。嫌いだった母親の努力や苦労を理解できるようになったし、自分と同じような欠点を持つ人にも、今なら寄り添える。
苦しみながら出した答えは私を優しくしてくれた。そうやってつけてきた自信は、いつか同じように悩む誰かの勇気になればいいなと思う。こんな今の私を、私は自慢したい。