「将来が楽しみ」と言われていた私は、やりたい仕事が見えていなくて

毎月、将来の夢が違っている子供だった。見たものに影響される私は、ドラマや映画を見るたびに自分を重ねて、それになりたいと言った。
最初は看護師だった。3歳の時、目の手術をして、そのとき近くにいた看護師のお姉さんがかっこよくみえた。だが、幼稚園を卒園するころにはアイドルになりたいと日記に書いていた。宝塚を見たときは私も入団したいと言ったし、テレビで見たチンパンジーの調教師、なんとなくかっこいいから外交官、いろんな人になりきってみたいから俳優になりたいとも言った。
当時の担任の先生から「俳優より小説家の方が向いていると思う」と言われて、小説を書き出したこともあった。
周りの大人からは「今月の将来の夢は何?」と面白がってよく聞かれた。と同時に「将来が楽しみだ」ともよく言われた。私は大きくなれば、自分が何になりたいか自然に分かるのだと信じていた。

ところが、大学生になっても卒業を間近に控えても、自分がやりたい仕事は見えてこなかった。私がやりたいことは、お金を稼ぐ方法ではなかった。
海外に行きたい。いろんな場所を見たい。韓国に留学したい。海外で暮らしたい。外国人の友達がたくさんほしい。きっと友達も同じような気持ちを抱えて、だからお金を稼ごうと、会社員になったことだろう。

やりたいことをやるために、お金のために、必死に志望理由を絞りだして履歴書を書いたことだろう。でも私は、納得ができなかった。「みんなが就職するから自分も」と流されて安全パイを選ぶことも嫌だった。
仕事をするからには目標を持って、自分がある程度楽しめて……そんなことを考えて、新卒採用に背を向けた。大学4年生になるやいなや、私は髪を染めた。

日本に戻ってきた自分は空き缶のよう。仕事を始めるも孤独だった

大学を卒業した後、私はとにかく自分がやりたいことを、やれる範囲で全てやってしまおうと考えた。そうすれば、また何か新しいやりたいことが湧き上がってくるはずで、それが仕事に結びつくかもしれない。

まずはオーストラリアで日本語を教えるボランティアを行った。そして韓国にも1年ほど留学した。
全てが思い通りにいった訳ではなかった。が、大体の希望を叶え、日本に戻ってきたとき、私は自分が空き缶になったかのように虚を感じていた。

人生には満足していて、あとはお金を稼ぐだけだと思った。でも、その方法が分からない。正確には、自分はどの職につきたいかがまだ分からなかった。
求人ページを大量にネットサーフィンをして、少しでも興味があるものを探しては、粗を見つけてケチをつけていた。

結局、結婚相談所なる会社で海外事業部の営業職になった。が、入社してビックリ!実はその会社はパパ活のマッチングサービスの会社だった。
応募した会社とは別の社名で運営していたため気づかず、面接の際には「そういう目的の方もいらっしゃいますが大丈夫ですか?」とだけ聞いていた。この時は、まあ出会い系だから仕方ないだろうとは思っていたが、パパ活メインの事業となると私のモラルが傷んだ。
友達からは「貴族のお遊びを手伝うのね」と一言。確かにこの世の中は、お金を持っている人から儲けを得るのが順当なのだろう。
しかし、私はこんなことのために今まで高い学費を払って、留学までして、苦労して勉強してきたのか……自分に問いかけたとき、答えはNOだった。
入社間もなくしてコロナウイルスの影響で休業となった時、私は会社を辞めた。

次の会社は、ITエンジニアの会社だった。
私はITに1ミリの興味もなかったが、求人はコロナに影響を受けず数があり、プログラミングには英語も使用するし、将来的にはフリーになり海外で仕事することも不可能ではない。いいんじゃないだろうか!
バリバリの文系だった私は、入社してから研修期間の間、猛烈に勉強した。もしかしたら人生で一番だったかもしれない。そして大手銀行の現場に出向し、業務が始まった。
運よく外国人エンジニアがいる現場で翻訳や通訳も任され、金融の知識がないながらも、自分の能力を活かしながら仕事ができているとの自負があった。

しかし、タイトな納期に高い品質が求められるため責任が重く、現場はいつも緊張感に満ちていた。怒鳴り声も時折聞こえてくる。でも、挨拶はない。四角だと言ったら、丸は認められない。そんな空気だった。
外国人エンジニアといる時は、それも緩和されていたが、彼らが別の現場へ移動し私一人が日本人の中に取り残されると、孤独を感じた。周りに人がいても、コミュニケーションはなかった。

問いかけるも答えは返ってこない。私を満たす仕事はあるのだろう

連休明けの「休みは何してたの?」そんな何気ない日常会話が恋しかった。私は日本人でありながら、いや、日本人だからこそ日本人に囲まれていると、次第に息が詰まるようになった。そしていつしか会社に行こうとすると、本当に息が詰まって苦しくなり、動悸がして、吐くようになった。
適応障害と診断され、3ヶ月休職をすることになった。

小さい頃からなりたいものがあって、結果はどうであれ、それに向かって努力している人は羨ましい。そして、そこで何か成果を出して、俗に言う夢を叶えた人は妬ましい。
ずっと憧れの職業があって、それを叶えた友達もいる。遠距離恋愛が嫌だからと3ヵ月で仕事を辞め、再び正社員にはならず、母親になった友達もいる。
私には、目指すゴールすら決まっていない。
休職期間中、自分の中の「仕事」に何度も問いかけた。でも空き缶の私は、中で反響するばかりで、答えは返ってこなかった。

休職期間が明けて、私はエンジニアの仕事に戻ってきた。また何か見つかるだろうか、それとも見つからずに別の道を探すのだろうか。空き缶となった私を満たす何かは、仕事であるのだろうか。