生産性のない自分が嫌だった。
親戚からもらうお年玉も、両親から何か買ってもらうことも、習い事の月謝を払ってもらうことも、教科書代を払ってもらうことも、気持ちが悪いと思っていた。

おこづかいをもらえたことが嬉しくて、私はすべて使い切ってしまった

そのような感情を抱いたきっかけは、7歳の頃に行った児童館のバザーだ。
母からおこづかいとして400円を与えられた。今まで自由にお金を使う機会がなかった私ははしゃぎ、その400円すべてを使い切ってしまった。
帰宅すると母に何にいくら使ったのか尋ねられた。私はすべてを話したが、50円分計算が合わなかった。買ったもの、遊んだものの代金を足しても350円にしかならなかったのだ。 
記憶をたどると、ヨーヨーすくいをしたときに「あれ?水の中に50円玉が1枚落ちている」とヨーヨー屋さんのお姉さんが言っていたことを思い出した。あれはもしかしたら私が落としたものなのかもしれないと、今になって気が付く。
「落としちゃった」と正直に母へ伝えた。母は怪訝そうに顔をしかめ、こう答えた。
「ちゃんと管理しなきゃダメだよ。お金は大事にしないと。無駄遣いばっかりして」

私はてっきりお金を失くしてしまったことを叱られるのかと思っていたが、そうではなかった。母は私が使った350円に不満があったのだ。
例えば、50円のヨーヨーだとか、30円のボタンつめ放題だとか。
言われたときはいまいちピンとこなかったが、数日たってしぼんだヨーヨー風船を見た時、とても虚しい気持ちになった。

バザーは楽しかったはずなのに、思い出すほど罪悪感がわいて苦しい

私はこんなものに50円も使ってしまったのか。
こんなにたくさんのボタンだって使う場面はきっとこない。
わたあめは一瞬でなくなってしまうのに。
お昼ご飯を食べてから行けば、焼きそばは買わずに済んだはず。
バザーの出来事を思い出せば思い出すほど、なんだか悪いことをしてしまったような罪悪感がわいて苦しくなった。たしかに、バザーは楽しかったはずなのに。

それからというもの、お金を使う行為、消費という行為に異常なまでの嫌悪を感じるようになった。
誰かを頼らずに生きることが不可能だと知りながら、できるだけ誰にも寄りかからずに生きたいと思った。高校生になってアルバイトを経験すると、稼ぐことの大変さを知り(最低賃金を無視するブラックバイトだった)、自身に費やされたものは無駄だったように思えた。

母の言葉は大したものじゃない。私が過剰に考えすぎてしまっただけ

大学生になって塾講師のアルバイトを始めた。まとまったお金が手に入るようになって気が付いたのは、今まで私は目の前のことにばかりとらわれすぎていたという事。
例えば、知識がなければ講師は務まらない。その知識というのは小学校、中学校……と自身が積み上げてきたものだ。それが財産となって今の自分に返ってきた。

母の言葉は大したものじゃない。私が過剰に考えすぎてしまっただけ。けれど、喉に小骨が刺さったような違和感は消えることなく、今も時々痛みが伴ったりする。しかし、少し前の自分のような自分を情けなく思う気持ちはなくなった。

この文章を書くことも今の私には何ももたらさないかもしれない。けれど、これを書くことは無駄とは思わない。
無駄かどうかなんて、すべて結果論なのだから。