「次は~……、……。左側のドアが開きます」 
聞きなれないイントネーションのアナウンスを聞きながら、端から端まで容易に見渡せるホームに降り立つ。赤茶けた錆が白い柱にぽつぽつ浮かんでいる。一つしかない無人改札に切符を入れる。ICカードなんて洒落たものは使えない。

携帯に財布と鍵。それと文庫本を詰めて、身軽に向かうプチ旅行

あてもなくふらふら歩く。でこぼこしたコンクリートの端を雑草が侵食している。道端から何かが醗酵するような癖のある匂いもする。春の匂いだ。目を凝らせば、わずかながら湯気のような何かが上がっているのも見える。

頭を空っぽにしたくなると、電車に飛び乗って行ったことのない所に向かう。携帯に財布と鍵。それと文庫本。小さなショルダーバッグ一つで町や村を行く。身軽だ。本当は携帯もおいていきたいが、何かあったときがことだ。いつも抱え込んでいる荷物を減らすだけで身だけでなく心も軽くなったような気持になる。

途中、夫婦のみで営業している食堂に入る。四人掛けの席に座り、店内に掲げられている短冊を眺める。値段の「0」が左に歪んでいて人間臭い。つけっぱなしのテレビの中では東京のスタジオにいる芸能人たちのにぎやかな会話が流れている。

目の前に日替わり定食が置かれる。焼き魚と香の物と副菜。白い味噌の中にわかめと油あげが浮いている。母の味とも自分のとも違う味だが、どこか懐かしい味がする。800円を出し、50円のおつりと共におすすめの場所を教えてもらう。景色が良い高台があるらしい。

老婆が示した方向に足を向ける。車やバイクとはすれ違うが、歩いている人はいない。目の前を横切る鳥をじっと見たり、花の匂いを嗅ぎながら、やっとこさ目的地へ着く。

ささやかな一人旅には、計画性もお金もそれほど必要なくて…

地元の人のおすすめだけあって、一望できる眺めは綺麗だ。所々雲が浮かんだ青い空に、木の緑、色とりどりの屋根の不思議と調和している。大きなお寺も、高台から見たらひどくちっぽけなものに見える。そのままぼぅっとし、日が暮れる前に駅に戻る。できるだけ行きとは違う道を行き、個人商店を覗き、何か一つ二つ買って帰る。その土地らしいもの。特に手作りのものが好ましい。

夜10時を過ぎても大勢の人が行きかう最寄り駅に戻ると、先ほどまでの閑散とした場所との温度差に戸惑う。本当に同じ県内か。
返答はないけれどただいまを言って、椅子に腰を落ち着ける。そしてその日一日のことを思い出す。その季節特有の温度や、人々の生活、楽しかったこと。忘れないうちにノートに書き留めることも忘れない。

ささやかだが、これが私の一人旅だ。計画性などかけらもない。お金もそれほど必要としない。だから思いたったら行くことができる。ふさぎ込んでいるとき、嫌なことがあったとき、その場から逃げ出したくなることがあるだろう。私は逃げが悪いことだとは思わない。だから、ほんの半日、プチ旅行をする。

端末の中じゃなく、現地で五感すべてを使って感じる旅

知らなかったことを、五感すべてを使って知ることができ、鬱々とした気分を変えることができる。私のことを何も知らない人と話し、なじみのない味を味わい、普段目にしないものを見る。家に帰ったころには新たな解決策であったり、悩んでいたことがなんでもないことのようになっている。

旅と言えば、遠くに行ったり、旅館やホテルに泊まるものだという固定観念があるだろう。お金と時間が無くてはできないものだとも。だが、お金や時間がなくとも、旅をすることはできる。

旅は多くのものを与えてくれる。掌サイズの端末をスワイプすれば、京都の五重塔もローマの水道橋も北極の白熊も見ることができる。クリックすれば、北海道のいくらも、沖縄のサーターアンダギーも家で食べることができるだろう。だが、現地でしか感じることができないものがある。それは有名な観光地である必要はない。どこにでも未知のものはあるし、出会いがある。

今週末も私は小さなショルダーバッグに荷物を詰めて旅に出る。