昔から言われてきた言葉。
あんたって大人だよね。
何かを譲るたびに言われる言葉。
昔の私は成人式が大人と子どもの境目だと思っていた。
実際のところはどこかでくるりと切り替わるのではなく、グラデーションで、一つ一つ経験と共にゆっくりと変わっていき、やがて成人を迎えるのだ。
「どちらでも大丈夫」と言うしかない空気なので、一言だけそう言った
高2。修学旅行の部屋割りの時間、人数の問題で、違う5人グループの女の子一人があぶれてしまった。
その子が私と友人の部屋に入るか、その子のグループが半分に分かれて、私と友人が別々の空いた枠に入るか。
向こうは長い間小声で話し合っていたが、決着はつきそうもなかった。
先生が私達にどう思うかと聞いてきた。先生からすれば、片方のグループだけでなく、平等に意見を聞きたかっただけだろうが、そっちの都合を優先するのかと5人が激怒して、クラス内は静まり返った。
「どちらでも大丈夫です」と、言うしかない空気なので、一言だけそう言った。
実際半分はもうどうでも良かった。この空気になった後で、どっちを選ぼうと、恐らく全く楽しくないだろうということは変わらないだろうから。
結局、向こうのグループが話し合った結果、あぶれた子一人がこっちの部屋に来ることが決まり、その子はホームルーム中に号泣して、周りの生徒に慰められながら下校していった。
その子への慰めやフォローの言葉以外、誰も何も言わなかった。
泣きながら帰るその子背中を見ながら、「なるほどね〜」と心の中で呟いた。
言いたい事が多すぎて整理できない気持ちを落ち着けようと、頭の中で繰り返した。
「君は大人だね」。貶していなくとも褒めてもいない言葉にうんざり
この地獄のような空気のまま2週間後に修学旅行。3年後にあの子達と私は成人。なるほどなるほど。
その後先生に呼ばれ、「ごめんな」と言われたが、何も悪くない人に謝られても逆に申し訳なくて、咄嗟に「お互い大変ですね」とかいう意味のわからない返事しか出来なかった。
まあ私は大丈夫なので、と付け加えると、先生は微笑んで言った。
「君は大人だね」
はい来た。
別に大人じゃねえよ。周りが幼稚なの。
この貶していなくとも実はそんなに褒めてもいない言葉に、そろそろうんざりしていた。
特別なことなど何もしていない。
「相手の気持ちを考える」。小学生の学級目標レベルの事だ。
なのになぜ私側の人間を無理に持ち上げたがるのだろう?
私は羨ましい。
物事が自分の思い通りにいかないと簡単にゴネる人が羨ましい。
私と私の友人の立場を考えず、みんなの前で絶対に嫌だ最悪だと涙できる人が、
相手の意見を聞かずに自分達のみで物事を決められる人たちが、羨ましい。
自分のことしか考えずに、「子どもっぽい」という優しい響きに甘えていられる事が羨ましくて仕方がない。
大人への道のりはグラデーションだ。
3年後成人を迎えても、みんな自由に我儘を言うのだろうか。
周りは私の考え方が大人なのだと言うが、私は他人を高く持ち上げれば、自分の今の立ち位置を正当化できるとは思えない。
私のした事は「大人な対応」で、あの子達の行動は「よくある普通」
5歳の従兄弟は分けてと言えば分けてくれ、貸してと言えば貸してくれ、一緒にやろうといえば一緒にやってくれる。
みんな簡単に子どもとか大人とかの問題にすり替えるけれど、子どもだって本能でわかっている。みんな仲良くは不可能だからこそ、ある程度の妥協と少しの思いやりで、スムーズにしていくのが人間関係だという事を。
あの子が泣いたのは、それほどあのグループで遊ぶのが好きだから。
延々と5人で話し合っていたのは、それほど修学旅行という一大イベントを真剣に楽しもうとしているから。
心の中で言いたい事があっても、本当はその気持ちが少し理解できるから、つい周りが見えなくなる事もあるかと、「どちらでも良い」と答えて黙っていた。
けれどこの件も全て、君は大人な対応だったね、という簡単な言葉で片付けられるものなのかと思うと、なんだか虚しくなった。
ならば私の相手を理解する努力や、この感情達は、何処へ行けば良いのだろう。
私のした事は「大人な対応」で、あの子達の行動は「よくある普通」で、その基準で回る場所は、誰の居心地が良いのだろう。
大人じゃないってば。ただ、当たり前を守っただけなのに。