当たり前だが、お金は使うものだ。お金の真価は、「なにか」と交換できる、ということだ。こんな当たり前な事を自覚したのは、つい最近である。
というのも、昔から貯金が好きで、お金を使うことにネガティブなイメージしか持っていなかったからだ。

小学生の頃からなぜかお金に執着。大学生になっても変わらなかった

きっかけが何だったのかわからないが、小学生の頃からなぜかお金を貯めることに執着していた。
お年玉をコツコツと貯めて、誕生日プレゼントに買ってもらった金庫に入れていた。たまに金庫を引っ張り出しては札束を眺めるという、悪趣味なことをしていたものだった。

高校生になるまでお小遣いをもらっていなかった代わりに、服やノートなど必要なものは買ってもらえていたので、お金を使う機会はあまりなかったものの、金庫からお金を抜く機会はあった。
いつしか、金庫の中身が少なくなることに悲しみを覚えるようになり、欲しい物ができたら、クリスマスや誕生日にお願いするというせこい技を使いつつ、なんとか金庫の中身を減らさぬように努めていた。
努力の甲斐あってか、高校生になる頃には、金庫に15万円が収まっていた。

この癖は大学生になってからもなかなか抜けず、学費、教科書代、友達との交際費以外には、出来るだけお金を使わないようにしていた。
最新の映画で見たいものがあったとしても、映画館で観ずにレンタルショップでリリースされるまで待つ。最新書籍は図書館に入るのを待ってから読み、気に入ったものだけを買う。旅行に出かけるときは新幹線を使わずに夜行バスで交通費を節約するなど。大学生の頃は特に、お金のことに神経質になっていた。

社会人になった私の目標は、良質な時間のために「お金を使う」こと

社会人になった途端、お金を使わないというのもが難しくなってきた。
そもそも、お金を使わなければ人と話が合わない場面が多すぎる。大学生の頃はまだ、単位の話、授業やレポートの話など、お金のかからない共通の話題があったが、社会人になると、共通の話題が流行りの映画やテレビ番組、本、食べ物、商品などになる。
今まで私がお金をかけてこなかった分野が、社会人にとって話題にしやすいものらしい。話題がなければ人と話すきっかけが生まれにくい、コミュニケーションにおいて不利であると、ここ数年で痛感した。

このような経験を経て、最近の私は「お金を使う」ことを目標にした。もちろん、やみくもにお金を使うのではない。主に「時間」にお金を使うのだ。

家にいると集中できないのでカフェで仕事や勉強する、という人の話をよく聞くようになった。カフェに行くと、最低でもコーヒー1杯分の料金をかける必要がある。家で作業すればそんな余計な経費はかからないのに、絶対に集中できる「良質な時間」のためにコーヒー代を惜しまないのだ。

心を豊かにして生きる。時間の価値は、ともするとお金より高くなる

このように、「時間」の価値は、ともすると「お金」より高くなる。
近年は、フリーランスで働く人が増えてきていること、「早期リタイア」や「セミリタイア」という言葉を聞くようになったことが象徴しているように、働く時間を自己管理し「自由な時間」を持つことが、世間では憧れの的になっている。

その「自由な時間」を手に入れるために、金策が必要である。その筆頭に「お金に働いてもらう」、つまり投資が人気だ。
お金が増えたら資格勉強などの自己投資に使い、もっと収入の高い職に転職してお金の心配を減らす。あるいは「お金に働いて」もらって、働かなくともお金が増える「しくみ」をつくる。
そうした金策でお金の心配をなくし「お金から自由」になる、そして「自由な時間」を手に入れる。最近のビジネス書を読むと、そのような生き方が近年の「賢い生き方」らしい。

そんな貴重な時間のために、私はお金を使おう。珍しいものを見たり食べたりする「時間」、人と会う「時間」、自分のスキルを高める「時間」……。そうして心を豊かにして生きていきたい。