幼少期、絵に描いたような3人家族で育ちました。ひとりっ子の私は両親からの愛情を独り占めして育ちました。教育費、衣服費、その他諸々たくさんかけてもらいました。

そんな恵まれた環境から一転、中学で父を亡くし母子家庭になりました。専業主婦をしていた母は晴天の霹靂、体と心を壊してしまいました。
2人ではとても生活できる状態ではなかったので、母方の祖母にお世話になる形で新たな生活が始まるのでした。

結婚して母となり、当時の母の気持ちに寄り添えている気がする

母方の祖母はとても逞しい女性です。昔から年に一度会えるかどうか。仕事人間で本人の希望もあって、せっちゃんと呼んでいます(おばあちゃんと呼ばれると、おばあちゃんになってしまうとのことです)。
生活を支えてもらい、私と母は日常生活を取り戻していきました。そうして私は中学、高校、大学と卒業させてもらいました。

就職して4年目の夏、結婚し退職しました。母と同じ専業主婦になり、その2年後、子供を授かりました。母と同じ立場になって初めて、母の気持ちに寄り添えている気がします。
父を亡くしたばかりの当時、私は母の辛さに気づいてあげることが出来ませんでした。 

母と姑は性格が合わない上に、母の気弱さから一方的に辛い気持ちを溜め込んでいました。父方の祖母は、私たちが母子家庭になった時、自分の息子が死んだ時、母にこう言ったそうです。
「お金は出せないからね」

母は目の前がぐらぐらしたと言っていたような気がします。当時の私は、そうなのか、ぐらいにしか思っていませんでした。でも、今ならその言葉の鋭さが分かります。
これから学費がどんどんかかってくるタイミングで、母一人子一人、専業主婦だった自分が育てていけるだろうか、やらなくちゃ、そうやってぐるぐる悩んでいるところに、長男の嫁として嫁いだ先の頼りにするべきところに突き放されてしまったのです。

私だけは母の味方でいるべきだったのに。更に傷つけてしまった

母の心をポッキリ折った姑であっても、父方の祖母が悪いと思うことはありませんでした。私にとってはおばあちゃんだったから。その気持ちを母にも伝え続けていました。
けれども、母にとっては違ったのです。そして、母の折れた心を更に戻せなくしたのは、私の同調が得られなかったからだと今になって思います。
母になった今になって、やっと当時の母の気持ちが分かります。味方だと思っていた娘が、味方ではないなんて辛いですよね。私だけは母の味方でいなければいけなかったのに。 

「私が面倒見たる」
母の体調が心と共に日に日に崩れていた時、離れて暮らしていたせっちゃんがそう言ってくれました。
並の覚悟で言える言葉ではありません。経済的に余裕があったからこそ、きっぱりと言えたのです。仕事をずっと続けていて安定した収入があり、母と私の性格も知っていたから、間に入る形で助けてくれたのでした。

今度は私の番。身内のSOSに自信を持ってYESと言える大人になる

せっちゃんがいなければ、私たち母子はどうなっていたのでしょうか。無意識に母を傷つけ続け、その日をどう暮らしていくかに頭を支配され、大学を出ることなんて到底出来ませんでした。

お金が全てではないと耳にすることがありますが、お金がないと気持ちに余裕がなくなります。人に優しく出来ません。そんな自分が好きになれなくなります。
せっちゃんが私に与えてくれたのは、生活費であり、教育費であり、衣服費であり、お金でした。
今の私が並の人生を送れているのは、せっちゃんのおかげです。傷つけたのにそれでもずっと愛し続けてくれた母のおかげです。2人からそれぞれ違う形の無償の愛を注ぎ続けてもらったおかげです。

今度は私の番です。
今は専業主婦ですが、必ず社会復帰を果たし、身内のSOSに自信を持ってYESと言える大人になります。それが私を支えてくれている人たちへの恩返しだと思っています。