職場まで徒歩通勤をしている。
歩く道は3色のタイルで舗装され、歩くのに疲れてくると「同じ色のタイルしか歩けないゲーム」をする。帰りには一日頑張ったご褒美にアイスを買う。家に帰るとテレビを見ながら晩御飯とアイスを食べ、お風呂に入って部屋を片付けてから寝る。

このようなルーティンは私が子供の頃から変わっていない。通学中に友達と「同じ色のタイルしか歩けないゲーム」をし、放課後は駄菓子屋にお菓子を買いに行った。家に帰るとテレビを見ながら宿題を片付け、晩御飯を食べてからお風呂に入り寝る。

変わらないようにみえる私も、考えることは大人になっていて

ある時、ふとした瞬間にこのルーティンを20年以上続けている事に気づき、自分は本当に成長しているのかと不安になっていた事がある。
SNSでは旅行、ジムでのトレーニング、おしゃれなディナーといった煌びやかな日常を投稿している、綺麗で華やかな友達が多い。
そういった華やかな生活は日常の一部を切り取って投稿された物と心の中では分かっているが、高校生から持っているジャージを部屋着代わりに着て、同じルーティンをこなしてる私には、自分は大人になった感じがしないと憂鬱になったし、SNS上でみる自分と同世代なのに別世界に住んでいような華麗な大人がとても羨ましいと思う事もあった。

しかし、同じ行動を毎日しているだけで、自分が頭の中で考えている事は少しだけ大人になっていると思う。「同じ色のタイルしか歩けないゲーム」をしながら家賃の支払いを思い出し、アイスを食べながら明日の仕事の計画を立てる。
テレビのニュースを見て自分の老後のお金の心配をし、ベットに入って明日の晩御飯や将来の家族計画を考える。
子供の時に何を考えていたかは正直覚えてないが、自分も周りの大人が考えている事と同じ事を考えているのではないだろうか。

子どもの時は気にしたことのなかった「母親の気持ち」を考えるように

最近「一番よく知っている大人」である母親について考える事が多くなった。
例えば子供の時は全く気にした事もなかったが、社会人になってから母親がどのような気持ちで毎日仕事に行っていたのか気になった。私はいつもめんどくさいと思いながら仕事に行くが、自分の母親はどんな気分で毎日仕事に行っていたのだろうか。
職場にいる苦手な人に挨拶するだけで精神的に疲れるが、彼女は職場に苦手な人はいたのだろうか?この間上司に褒められとても嬉しかったが、母親もそのような経験はあったのだろうか?

また、社会人になり結婚して、給料から生活費や税金が引かれた後の残額を見て、母親はどうやって自分と妹を養ったのか心底疑問に思う事もある。
私達の習い事の費用はどうやって捻出したのか?毎年行っていたスキー旅行にどうやって連れて行ってくれていたのだろうか?

やっぱり「母親は偉大」と思えた瞬間に、自分は大人に近づいたと感じる

今は子供の時に「外食がいい」「留学したい」「友達お母さんはもっと優しい」と母に我がままや文句を言った事を、ふとした瞬間に思いだして反省する。
親が自分にしてくれた事と同じ事を、自分の将来の子供にはできるのだろうかとも考える。「やっぱり母親は偉大だな~」とよく思う。

こうして母親は偉大だな~と思えた瞬間に、自分は「大人」に近づいたと感じる。
母のような大人になりたいが、まだまだ理想の大人への距離はいつも遠い。「同じ色のタイルしか歩けないゲーム」をしている時に、「大人」から遠ざかる。今日も育ててくれたお母さんに感謝して、少しづつ「大人」に近づく。