小学校6年生のとき、もらったお年玉片手に郵便局に向かっていると、母に言われた。
「無駄遣いしないのはいいことだけれど、何か自分が納得できるような大きなものを買ってみたら?」
周りの小学生たちがゲームソフトや玩具にお年玉を使ってしまうなか、ただため込むだけの娘を心配したのだろう。
Aちゃんはお年玉で新作ゲームを買ったんだって。Bちゃんは……と言う私に、母は「さやちゃんは欲しいものないの?」と聞いてくるときがあった。そういうとき、私は少し考えてから「ないよ」と答えるのが常だった。
今思えばかなり恵まれていて、クリスマスと誕生日には、両親や祖父母からリクエストした玩具をもらっていたので、そのときに頼めばいいやと思っていたのと、頼むのが憚られるような高額な玩具は自らが買うのも憚られていた。
失うお金と欲しいものを天秤にかけて、結局はお金が勝る。そういう子どもだった。
母の提案は、お金の使い方も覚えてほしい意図だろうと推測できた
私がお金に厳しいのは筋金入りだ。親からの勧めもあってだが、小学1年生からお小遣い帳を付け始め、お年玉は全額定期預金に入れ、利子が付くのを楽しみにしていた。そして、500円玉貯金、珍しいお金貯金、などなど。様々な貯金をしていたのだから。
たまに母は私が金にがめつくなりやしないかと冗談めかして言っていたから、何か買ってみたら?というのもお金を貯め込むだけではなく、お金の使い方も覚えて欲しいという意図だろうというのは容易に推測できた。
「お母さんがあんたくらいの頃は、自分の自転車を買ったもんだけどね」
そのとき使っていた自転車は小学校2年生のときに買ってもらったパステルブルーのもので、小さく、私の身体には合わなくなっていた。
自らの娯楽のためだと使うのもためらうが、小学生、中学生にとって自転車は必需品だ。そういうものを買えばいいのか、と納得はしたものの、通帳から預金が減っていくのがおしく、結局次の誕生日にプレゼントとして買ってもらった。
家を出てお金を使う抵抗感は薄れても、細かいところはケチケチと節約
そうこうして私は自らの貯金に手を付けることなく、18歳を迎えた。その頃には親も匙を投げていて、家の中で「吝嗇家」は私の代名詞になっていた。
私は県外の大学に合格し、家を出ることになった。オール電化のために電気料金が1万円近いときもあって、それくらいならばお金を使うことへの抵抗感も薄れてきた。
だが、5万円以上は無理だったし、買い物の回数が増えた結果、細かいところでケチケチするようになった。毎回、グラム単価でヨーグルトを選ぶ人間なんて、おそらくわたしくらいのものだろう。
大学入学時の貯金は30万。大学生にもなれば数ヶ月で貯まる金額だ。それでも私はなんやかんやと理由を付けてはその貯金には手を付けなかった。
周りの大学生たちは10万円もするバッグや財布を持っているというのに、私は未だに3000円の赤札の財布に親からのお下がりのバッグ。ほつれが見えてきた頃にこれではいけないと思って、思い切って気に入ったデザインの鞄を買った。3万円也。
使わないとただの紙。お金を体験に変える転機がついに訪れた
素敵なものへの憧れはあるけれど、どかんとお金を使うことがなんとなく怖く、清水でもこの値段……ようやく私は母の懸念を実感の伴ったものとして受け取れるようになった。
貯め込むだけだと、いざ使うというときにストッパーが掛かってしまうのだ。多少お金を使う趣味を始めたけれど、それでも私の貯金は減らない。
お金は使わないとただの紙。それを自らの体験に変えることが大切だよ、とは母の談だ。私は体験に変えるのが下手すぎる。
悶々としていたが、そんな私にも転機がきた。コロナが収束したら、友人と海外旅行に行こうという話になったのだ。
二人が好きな漫画の舞台を訪れに、北欧へ。ホテル代と飛行機代だけで私のお年玉貯金は飛んでしまうだろう。でも、きっとこれが、母が言いたかったことなのだろうなと思う。
その体験を得るために、今日も理由を付けてはお金を貯める。当分、この癖は直ってくれないらしい。