コロナ禍となった2020年の初夏、日本中の人々が受け取った10万円を覚えているだろうか。あの頃、私は経済的に限界を迎えていた。

大学院に進学するも、コロナ禍で期待外れのような虚しさを感じた

元々、浪費するタイプではない。中高生時代は、貰ったお年玉を全て貯金して、少しずつ使っていたし、大学に入学しても遊び惚けることはなかった。
欲しいものがあってもすぐには買わないし、ブランド物など高級品に興味はなく、スーパーでも、割引になっていないお惣菜を買うことはない。そのため、大学卒業までに、お金に困った経験はほぼなかった。

しかし、京都で大学院に進学してからは、本当にお金に余裕がなくなって、ひたすらバイトをする生活だった。
両親の方針で、大学院からは実家からの仕送りがない。家賃と学費をまかなうために一生懸命働いていた。時期も悪く、ちょうどウイルスが猛威をふるいはじめた時期に大学院に進学しており、授業は全面オンラインで、授業開始日も学年歴より一ヶ月ほど遅くなっていた。

私は、この状況に期待外れのような虚しさを感じていた。自分で決めた進路とはいえ、あまりにも予想と異なる日々で、後悔すらしはじめていた。
それでも、働かなければ生きていけない。切り詰めた生活で、好きなものを買うこともなかった。食事も、とにかく安く済ませ、最低限の栄養をとるように心がけていた。

支給された10万円。後輩の友人が買ったのは「アロワナ」で…

そんなある日、バイトのお昼休憩中に、後輩から話しかけられた。
「今日も人来ないですね」
バイトは、クリーニング店の受付をしていた。飲食店ほどの影響はないにせよ、以前と比べ明らかに客足は遠のいていた。
「うん、そうね。こんな状況だし、シフトも削られるらしいよ」
私は、持参した冷たいおにぎりを食べながら、ぽつりと答えた。

後輩は、いつも明るく元気ないい子だったが、実家暮らしで、いつも昼休憩中に近くのコンビニで買い食いをしていたので、その時はとにかく彼女が羨ましかった。彼女だけでなく、当時は実家暮らしの大学生全員のことが羨ましかった。

「そういえば、先輩は10万円、何に使いましたか?」
「いや、まだ届いてなくて。でも届いたとしてもほとんど貯金するなあ」
私はため息まじりに返答するしかなかった。
「それが普通だと思いますよ。……でも、そういえば私の友達にすごいへんな奴がいるんですよ」
「へんな奴?」
「はい、同じ学科なんですけど、熱帯魚オタクで。すごい高い水槽とか、装置とか買い集めているんです。そいつ、今回の10万円給付で何を買ったと思います?」
彼女の薄茶色の瞳が楽しそうに笑っていた。私はそれに引き込まれるような気持ちで尋ねた。

久しぶりに心の底から笑った日。鴨川を眺めるたび思い浮かぶ彼の姿

「え、何を買ったの?」
後輩は、それが、と言葉をつづけて、こう言った。
「アロワナを、一匹買ったらしいんです」
「アロワナを?」
私はとっさに意味を理解できなかった。

「……あの、アロワナ?細長い?」
「そう、古代魚のアロワナです。水族館とかにいるやつです」
「へえ……そんなにするんだ」
「物によってはすごい値段がつくらしいんですよ」
私は、だんだんとその人に興味が湧いてきているのを感じた。そんなもの(私からすれば「そんなもの」だった)に10万円を費やす男の子について、もっと知りたくなってきていた。

「あんまり詳しくないけど、なんかエサやりとか色々大変そうだね」
後輩は、よくぞ聞いてくれました、とばかりに深く頷いた。
「毎朝6、7時頃に、網を持って鴨川に行って、自分で捕まえてるらしいです」
「え?エサを?」
「ええ、小さいエビとか、虫とか。よくわかんないですよね」
大学2年の男の子が、10万円のアロワナを買い、早朝に鴨川に行き、アロワナのエサとなる小エビをせっせと捕まえている。
そんな光景を思い浮かべ、私は久しぶりに心の底から笑っていた。

「そんな人いるんだ。そんなに手間がかかるのに、10万円払うってありえない」
私は、そう言っていたけれど、内心は彼のことを尊敬していた。
その日から、鴨川を眺めるたびにその人のことを思い出すようになった。彼が、彼の大事なアロワナのためにエサをとっている姿が見える気がした。

話を聞いてから探し続ける「私にとってのアロワナ」に出会えたら

その後、しばらくしてようやく10万円が手元に届いたときには、私は返済不要の奨学金の審査に合格し、以前ほど苦しい生活ではなくなっていた。
それでももちろん余裕があるわけではない。貯金残高を見て、少しためらったけれど、やっぱり何か好きなものを買ってしまおう、と思った。
貯金をするのも大切なことだが、本当に欲しいものを手に入れるときには思い切って使うことも大事だと、なぜか確信を持てるようになっていた。

そこで、10万円のうち半分は、思い切って以前から欲しかったものに使った。
我慢していた新しい服や化粧品、そして家具。でも、正直にいって何を買ったか、今ではちゃんと思い出せない。少しずつ、色々なものを買ったからだ。
それならば、「アロワナ」みたいに一つ大きな買い物をした方がよかったかなと後悔する思いもある。
しかし私には、毎朝エサをとりに行くような甲斐性はない。だから結局、今の私に買える欲しいものなんて、その程度のものしかないのかもしれない。

私は、あれ以来ずっと、私にとっての「アロワナ」を探している。
見つかったあかつきには、惜しみなくお金を使えるように、これからも働くのだ。