私がまだ幼かった頃、共働きの両親に代わって身の回りの世話や遊び相手をしてくれたのが祖母だった。
その祖母がたまに言う一言で覚えているものがある。それが「大変な時代を生き抜いてきた、年長者を敬い、大事にしなさい」だった。
思春期になり、気になり始めた祖母と母の関係。思わず口を出した
祖母は戦争経験者で、実際に本人の口から空襲を命懸けで切り抜けた話を聞いたこともある。
「着の身着のまま、家族みんなで市街地から離れてね。ふと空から降ってくる焼夷弾を見た時、不気味なほど綺麗で……今でも忘れられない光景の一つなのよ」
そんな壮絶な経験をした祖母であったが、思春期になるといくらか気になることも出てきた。それが祖母と母の関係である。
普段は仕事で家を空けがちな母に対し、主に家のことを担う祖母がチクリと嫌味を言う。もしかして私が幼すぎて今まで見えていなかったのかもしれないが、他者に過敏な思春期に、やっと同じ女同士のいざこざが目につくようになった。
母は何も言い返さないが能面のように無表情で、言葉がなくても不快な感情は感じ取れる。
次にそんな現場を目撃してしまった時、つい口が「おばあちゃん、お母さんをいじめないで」と動いてしまった。その時の祖母と母の表情はもう覚えていないが、きっと互いに突然のことでびっくりしただろう。
それが、自分にとって初めて「年長者だからといって大事に思えない」と感じたエピソードである。
時は流れ、祖母は亡くなった。
最期は介護が必要になり、家族みんな大変な時期もあったものの、亡くなる前には一番献身的だった母に対し「ありがとう」と言葉をかけている姿を見て、私の中での心象は少し良くなった。母の本心は今でも分からないが。
不快感を覚える義祖母と義母の関係に、年長者への尊敬の念が揺らぐ
そして、私自身も結婚し、実家を出た。
今は夫の家族とは同居せず、一応手の届く距離で暮らしている。それは母が結納の席で「同居はせず、別家庭として暮らしていくこと」を、嫁に出す譲れない条件として挙げたからだった。そのことから、母が祖母との関係において少なからず苦労があったことを感じた。
だが、母のその一言のおかげで救われたと思えることがすぐにあった。
今度は、義祖母と義母の関係。気の強い義祖母が義母へ発する言葉の棘。この前まで他人だった自分が聞くと、「これって嫁いびりじゃないの?」と思うことが会う度に続く。
つい夫に「義祖母さんは昔から義母さんへあんな態度なの?」と聞くと、「義母は慣れてるから大丈夫だよ」とお気楽な言葉が返ってきた。
男ってやつは、同じ家族であっても女同士の関わりにはひどく無頓着なのだ。
客観的に見て、不快感を覚える嫁姑関係。長年耐えている義母のストレスはきっと半端ではない。
再び、たとえ大事にされるべき年長者であっても、ああはなりたくないと思ってしまった。
幸い、苦手な義祖母とは別居という形を取り、物理的な距離を保っていた。だが、出産を機にまた頭を抱えることになる。
ひ孫フィーバーよろしくと言わんばかりに、義祖母から頻繁にくる連絡、それに伴い会いに来る頻度も増えた。昔ながらの価値観で育児論を展開し、私のやる事なす事への批判も多くなった。
義母への今までの関わり方が私にも伝播してきたように思う。
一概に年長者を敬うべきという考えでは、耐えられなくなってきた
義祖母に会うと無意識に傷つけられる。今では、自分自身を守るために義家族に会いに行くことは控えると、夫に公言している。
しかし、そんな私の気持ちはつゆ知らず、義祖母は気まぐれにやってきては毒を吐き、私の心を荒らしていく。悪気があってもなくても、相手の気持ちを考えず傷つく言葉を吐くのは暴力と一緒。
その度に祖母からの「苦労してきた年長者を敬いなさい」の言葉を思い出し、ぐっと我慢するのだが、そろそろこの理不尽にも耐えられなくなってきている。
ただ年齢が上だから、経験豊富だから、苦労してきたからを理由に、一概に年長者に尊敬の念を抱くべきとする祖母の意見は、今は少々浅はかだと思う。
逆に年を重ねれば何を言っても許されるのだろうか。自分の身の回りには、若くても素晴らしい人間性をもつ人がたくさんいる。
言葉は悪いが天秤にかけると、傍若無人な老人より、未来ある若者を大切にしてあげたい。
確かに祖母は、私にとって血の繋がる大事なお婆ちゃんだった。しかし、母から見る祖母はきっと違ったのだろう。
私が祖母や義祖母と同じ年代になった時、どんなお婆ちゃんになっていたいか。姑の立場に立った時、お嫁さんとの距離感はどうすべきか。
残された時間の猶予の中で、人生の課題にしていきたい。