人は誰かと出会う限り、別れが訪れる。
その時どうするかで、人の真価がわかるものだ。
父を亡くした時、私は自分がまだ「子ども」だと悟り、ひとりの「大人」を尊敬するようになった。
突然訪れた父の訃報、それを笑いながら伝える母は、小学生のようだった
大学の卒業論文のテーマを考えていた頃のこと。母から電話がかかってきた。
「もしもしぃ?あのさぁ、もう葬式は済んだんだけど、お父さんが亡くなったの」
「……はぁ」
「うん!でね、やってほしいことがあるんだけどさ」
「えっ、ちょっ」
ちょっと待って。
え、父さん死んだの?いつ、どこで、何で?ていうか葬式あったの?何で呼んでくれなかったの?しかも何でそんなに明るく旦那の死を語れるの!?
そう思っている間に、次の一言が来た。
「ソウゾクホウキなんだけど……」
いま相続放棄って言った!?待って、まずは、気持ちの整理をさせてください……。
そんな願いも虚しく、母は笑いながら話を進めた。
母は、いつも笑っている。もう過ぎたはずの「箸が転んでもおかしい年頃」を、ずっと生きているかのような人だ。だが、一度だけ母が泣いたことがある。それは、私が子どもの頃、父方の事情を語った時だ。
そのはずなのに。今の母は、父方の事情を追加情報も混じえて嬉々として語っている。時々不自然な間があるのが気になったが、それ以外は、まるで遠足帰りの小学生みたいだった。
あぁそうだ。
母子家庭で育った私は、父の声や顔を知らない。せめて相続放棄する前に、顔だけでも知りたい。
「あのさ、父さんの写真とかってないの?」
「うん?そんなのあると思う?」
そっか……子どもの頃に聞いた話で薄々思っていたけど、そっか……。
「あの……一旦切るわ……」
「はいはーい」
文末に音符マークでもつきそうな勢いだった。
通話開始から1時間以上経って、私はようやく電話を切った。突然の訃報と、異様な母の態度。手続きをする前からすでにくたくただった。
やがて届いた相続放棄に関する書類。しかし、なかなか体は動かなかった
人は生きている限り、別れを経験する。ただし、「大人」にゆっくりと別れを惜しむ暇はない。
幼い頃なら泣けば済まされる。葬式で「今までありがとう」などと弔辞を言って、泣きじゃくることもできる。小学生の頃、別の家族が亡くなった時、私も同じことをした。
だが、父の訃報は、私に泣く暇を与えてはくれなかった。気持ちの整理がつかなくても、勉強やアルバイトは普段通りだ。
さらに、ほどなくして相続放棄に関する書類が届いた。
「手続きは訃報を聞いて3ヶ月以内に」。しかも「失敗できない」。
……やばい。入試より、就活の面接よりやばい。
初めて知った父の漢字名を気にしている場合ではなかった。書類が私のところへ送られた以上、もう大人だからこなせると思われているのだろう。
手続きを進めないといけないのは分かっている。書類の意味も、ざっと理解はできたはずだ。だが、なかなか体は動かなかった。
「被相続人」なのは、電話で聞いた父の名前だ。だが彼は、ついさっき名前をちゃんと知った人。彼を娘として偲んでいいのか。そんなことを考えていた。
母が手伝ってくれたら。いや、手伝ってくれなくてもいい。せめて気持ちの整理がつくまで、そっとしておいてくれたら。そんな甘い考えが頭に浮かんだ。
わざと明るく振る舞っていたのではないかと思うと、母が違って見えた
その時、私はハッとした。
「大人」は自分の感情を押し殺してでもやるべきことがある。それを果たせてこそ一人前。そういう意味では、年齢上「大人」になっても、私はまだ「子ども」なのだ。
同時にこう思った。もしかしたら母は、私に心配をかけすぎないようにと、明るく振る舞っていたのではないのか。
母が気丈にふるまう理由は、聞けなかった。聞いてしまえば、今まで築いてきたものを全て壊してしまうと思ったからだ。推測に過ぎないが、相続放棄を持ちかけたくらいだ。きっと、心理的にも社会的にも、故人の死を心穏やかに偲べない事情があったのだろう。
だが、訃報を聞いた時点でそれに注目しすぎれば、母を心配するあまり、亡くなったという事実を受けいれにくくなる。そうなれば、私は悶々と考えてしまうだろう。父の名を知っただけで、考えすぎてしまう自分のことだ。へたをすれば、父に会いたいと思い詰めるあまり、跡を追おうともしかねなかった。
そうならなかったのは、母のおかげだ。あの底抜けに明るい態度のおかげで、ひとまず事実を理解し、父の人生や母の態度に注目できたのだから。
自分の未熟さを恥じると共に、私は母を一人の「大人」として尊敬した。
私はおよそ四半世紀ほどしか生きていない。葬式に出た回数も、両手で収まるほどだ。だが年を重ねていけば、近しい人との別れを今よりも経験することになるだろう。
別れは経験したくない。
だがもしその時が来たら、私は母のような「大人」でいたいと思う。