「受けた愛に理由など付けるな」
少年ジャンプに連載中の漫画「ONE PIECE」の80巻で、センゴクというキャラクターが発した言葉だ。
私は、いつ、どこでこれを読んだのか全く覚えていないのに、今でもふとこの言葉を思い出す。
特に父が死んだ3ヶ月前から。

昨年の10月、ろくでもない人だった父が死んだ

私の父は、ろくでもない人だった。パチンコにハマっていて、その日の勝ち負けで子どもに当たり散らす。母は、私が何とかしなきゃと、借金をする父を尻目に身を粉にして働く。典型的な共依存だったと思う。

そして、いわゆる心理的虐待(不幸にも!私は不機嫌な父から暴力を受けたことは殆どなかった)の中育った私は、心を病んだ。我ながら典型的な、言葉も出ない展開である。

そんな父が死んだ。昨年の10月のことだった。私が知らない間に両親は離婚していて、かつ私も大学進学後父の元に顔を出すことはなかったから、初めて聞いた時実感が持てなかった。遠い親戚のおじさんが亡くなった感覚。

だけど、私が長女であることや、祖父の身体が不自由なことなど、様々な理由で私含め兄弟で葬式を取り仕切らなければならなかった。

急いで地元に戻った。もう10年近く帰っていない「本当の実家」は、今はもう祖父だけの家になってしまった。

棺を閉める瞬間、私の「父」なんだと、急に突きつけられた

葬式というのは、最も死と向き合うべき人が最も忙しなく動き回るシステムなんだと、初めて知った。
ゴミ屋敷になってしまった家の中から、棺に入れるものを探す。父が何を気に入っていたのかなんて分からない。父が借金していた債権会社の督促状が山ほど見つかっただけだった。
葬儀に来てくれた父の高校時代の友人に初めて会った。「こんなに大きくなってたんだね」と言われた。父に友人がいたことすら、私は知らなかった。父は、私たちのことを友人になんと言っていたのだろうか。聞けなかった。

棺を閉める瞬間、これまで遠い人だったはずの彼が、私のたった1人しかいないはずの、実の親だと、「父」なんだと、急に突きつけられた。そしてそんな父が、もうこの世にいないのだと。

涙が出てきて止まらなかった。酷いことしかされていない、今もまだ私は過去の傷に苦しんでいる。私は何も貰っていない、でも何故か涙が止まらなかった。

脳裏に焼き付いている。機嫌が良い時はどこかに連れて行ってくれたこと。お菓子を買ってくれたこと。高校に合格した時、すごいなと言ってくれたこと。

こんなもの全部ぜんぶ、私がお前から受けた扱いと比べたらなんの価値もない。ただお前が気まぐれでしたことだ。分かっている、知っている。

でも、これは、私が嬉しいと感じたこれは、いったい何と言うのだろう?

母の謝罪を受け入れたら、私が受けた傷が全部無くなってしまう気がした

母は、父と離婚して、自分が父を庇うせいで私たちを傷つけていたことに気づいたらしく、謝るような発言をすることがあった。でも私はずっとそれを受け入れなかった。私がそれを受け入れたら、私が受けた傷が全部無くなってしまうような気がしていたから。

そんな母は、葬式そのものが初めてで不慣れな私たちをずっと手伝ってくれていた。母にとっては元夫、他人だと言ったらそれまでなのに。
「私はあんたたちの親だから」
そう言って、葬儀後の借金の相続放棄など様々な手続きまで手伝ってくれた。

母は、私が父によって1番傷ついていた時、助けてくれなかった。でも同時に、私たちが生きていけるだけのお金を必死に稼いでくれた。お弁当を毎日作ってくれた。行事も出来るだけ来てくれた。
あんまり褒めてくれないけど、言葉足らずで人を傷つけるけど、あんまり謝ってくれないけど、でも、私たちを大事にしている。
こんなこと、私が子どもの時受けた傷と比べたら、どうってことないことだ。親は子を大事にして当然、一度だって傷つける方がおかしい。分かっている、知っている。

私が愛だと思えたことは、愛でいいんだ

でも、でも!私はこれを愛と呼びたい。葬儀の準備を助けてくれたこと、子どもの時からずっと私を陰から支えてくれたこと、私を大事に思っていること、全部、全部、全部愛と呼びたい!
そして、もういない父の、小さな小さな思い出も、ある種の愛と呼びたいと、私は思ってしまうのだ。
両親へのこの気持ちを愛と呼んだら、子どもの頃の私が泣いてしまう気がしていた。私を放っておくの?傷を見ないふりするの?と縋ってくる気がしていた。
だけど、そう思って苦しくなった時に、いつも思い出す。

「受けた愛に理由など付けるな」

私が愛だと思えたことは、愛でいいんだ。そこに気まぐれとか、一方では傷つけてきたとか、そんなことを考えなくていい。関係ないんだ、愛は愛だ。そう思わせてくれた。

そして受けた愛に理由などないから、私が愛を認めたとしても、子どもの私を見捨てることにはならない。この言葉の真意はもしかしたら違うかもしれない。だけど、この言葉は私の心を変えてくれた。

長い間宙ぶらりんになっていた私と両親との「愛」の問題が、変わっていく。

......そんなこと言ったら子どもの頃の私、拗ねちゃうかな。自分のことだけどまだ計り知れない。それくらい、子どもの私と向き合うことは、私に巣食う大きな課題だ。
でも、もし拗ねちゃったとしても、私は子どもの私も大好きだよ。今はそう言ってあげられる。だって受けた愛に理由などないから。愛を与えることにも理由なんてないはず。でしょ?