友達と遊んだり旅行へ出掛けたりする事は好きだ。けれど、私はひとりで自由に気ままに旅をする方が最上級に充実する。
なので、私がひとりを楽しむ方法は「一人旅」である。

なんでも自分で決める一人旅。電車からの景色に想像力を爆発させる

一体何が良いのかと言うと、誰にも口を出されず、相手のことを考えなくて良い……つまり、自由に自分勝手にしたいことが出来る。「あそこに行こう」「いや、でも気が変わったから目的地はあそこにしようか」「老舗のお食事処に行きたいからどこで降りよう」など、相手の顔色を伺わずになんでも自分一人で決められる。これこそ一人旅の特権ではないだろうか。

一人旅の中で私は、電車の窓から初めて見る景色が面白くて仕方ない。子供みたいだなと考えたりするが、昔から電車の進路に合わせて変わりゆく景色を眺めることが楽しくて仕方なかった。

しんとした田んぼばかりの田舎や、店がギュウギュウと並びピカピカ光を放つ都会……。どちらも趣深いが、私は静かで自然を堪能できる田舎の景色の方が圧倒的に好きである。
それは、都会に住んでいるから惹かれてしまっているのかもしれない。けれども、自然が好きという理由は、静かで充満している木の葉の匂いや、太陽を反射して流れる川の音などが逆に非現実的に感じ、この先は何が待っているのだろうという好奇心が次から次へと芽生えるからだ。
だから、ただ「田舎って落ち着くー」「自然好きー」という感覚で惹かれている訳ではないことを訴えたい。

話を戻し、先に述べたことから、私は電車の窓から見える自然や田舎の静かな光景が大好きなのだ。電車の中だと自然の中を探検したり音や風、匂いを感じることは出来ないが、歩いてでは困難であるほど遠い道のりを簡単に猛スピードで走れてしまうので、たくさんの景色を堪能出来るという利点がすごく大きい。
利点というか、これは電車に乗るのが楽しいと感じる大きな理由でもあるのだが、私は電車の中から外を眺めていると想像力が爆発しそうなくらい頭がよく働く。

自分はまだまだやれる。広大な景色を見ていると、前向きになれる

まず、過去の自分の記憶が頭の中を駆け巡る。
たいてい思い出すのは、私が幼い時によく田舎にある祖父の家へ足を運んでいたこと。そこでは、祖父の畑仕事の様子を見てお手伝いをした(手伝いというか、ほとんど遊んでいて祖父が構ってくれた)後に、一緒にストーブの前で話したり、トースターでお餅が膨らむのを2人でじっと見たりしていた。

そんな風にのびのびと新しい経験をたくさん与えてくれた祖父との日々が、電車の中でよく蘇る。あの、時間を考えないで好奇心だけで動き回っていた新鮮な想いや、目に焼き付いた当時の景色に祖父の行動……。時間に縛られて周りの目を気にし、毎日に飽き飽きし始めている今とは正反対だなっと自分を省みてしまう。
「あの頃に戻りたいなぁ」と、哀愁や虚しさを感じて、恥ずかしながら涙を流しそうになったこともある。これもひとりじゃなければ、過去を探検出来なかっただろう。

外の景色を眺めていてもう1つ思い浮かぶのが、今自分は何に挑戦すべきなのかと理想の自分は何なのかなど、今の自分を俯瞰すること。これを考えるのは嫌気がさす一方で楽しくもある。
広大な景色を見ていると、「自分はまだまだやれる。そもそも何も始めていないし手探りで挑戦するんだ!」という前向きな気持ちになる。何故か勇気が溢れるこの体験は、毎度不思議だなと思う。

帰ったら小説を書こうかなど考え、物語の案をスマートフォンのメモに書き出していく。これも不思議なもので、電車の中ではよく物語が頭に広がる。次から次へと言葉が連鎖して止まらなくなり無我夢中で打ち込んでしまう。
疲れたらまた窓の外を眺めて感慨にひたる。そして、イメージが膨らむとまたスマホを出してメモに書き始める。

未知の世界を歩きながら自分と向き合える、一人旅が大好きだ

このように私は電車を使用して、景色を眺めながら想像することを満喫している。ただの一人旅ではなく、過去の自分や新しい自分と出会える感覚がたまらなく面白いから。
電車の中だけではなく、たまに終点まで行ったらどんな景色が待っているのだろうかと気になって、わざと終点まで行って降りることもある。未知の世界を歩いてみて、何にも縛られない時間を自分勝手にブラブラと精一杯楽しんでいるのだ。

客観的に見れば、電車に揺られてフラフラと歩いているだけに見えるかもしれないが、その中には自分を改めて省みる発見や景色を味わって想像力を働かせる面白さが敷き詰まっているということを強く伝えたい。
真の自分と向き合えるのは自分しかいない。自分と向き合うなんて嫌で面倒臭いと思ってしまう私は、楽しんで自分と向き合えるようにしてくれる電車の一人旅が大好きだ。