仕事のできない先輩、道を塞ぐ子供たち、シャッフル再生され違うアーティストの曲が流れたり、財布の中身は300円だけだったり、全ての事にイライラし、帰宅。 少し一息ついてお風呂に入るかーなんて考えながらLINEを開くと、公式アカウントからLINEが届いていた。
また新しいエッセイの募集か、と思いタイトルを見た瞬間、なぜか涙が溢れた。実はこんな落ち着いた文を書いているが、今も泣きながら執筆している。

「もし今あなたに会えたなら」
最近はなにも上手くいかなかった。一年に一度しかない試験に落ち、これじゃダメだと思い新しいことを始めようと思ったがお金がなく、親に前借りする始末。仕事先の先輩にはイライラしまくるし、腰やら膝やら頭やらが痛む。
それを放ったらかしにして、忙しい振りをして、気を紛らわしていた。そんな時にこのタイトルを見た。

あなたに会えたなら、と言われて真っ先に祖母の顔が思い浮かんだ。

祖母の肺がんが発覚。余命が半年だなんて信じられなかった

祖母は去年の5月末に亡くなった。
別に特別おばあちゃんっ子だった訳ではない。でも生まれた時には父方の祖父母は亡くなり、物心つく前に母方の祖父が亡くなり、物心ついた頃には既に母方の祖母だけだった。だから私にとっては最初で最後のおばあちゃんだった。
そんなおばあちゃんは肺がんで亡くなった。

それが分かったのが、コロナが流行りだした一昨年の1月。最初の余命は半年だった。
おばあちゃんイコールたばこ、ぐらいに思っていたので、最初はまあそれしかないよなと思っていた。
最近までおばあちゃんの匂いだと思っていたのがタバコの匂いでびっくりした。と同時に、タバコを吸えばいつもはあちゃんの匂いを感じられるんだと少し安心した。

癌が発覚した時、母方の三兄弟と私が祖母の家に集まった。その時のばあちゃんはとても元気で、とても癌のようには見えなかった。
母方の三兄弟、長女が私の母、長男、次女はとてもなかよしで3人で集まって遊んだり、家族同士の交流も深く、正月やお盆は毎年集まっていた。
確か、最初に癌なのと言ったのはLINEだったと思う。母から告げられた記憶がある。でも曖昧だ。それはきっと祖母が癌なんて信じられなかったからだろう。
そしてその報告をうけ、実際に集まると、長男が泣き出した。癌になった祖母より先に。

初めて見た叔父の泣き顔が衝撃的で見ていられなかった。それを慰める長女、私の母も涙ぐんでいた。 祖母と一緒に住む次女はきっと覚悟が出来ていたのだろう。涙ぐみもしなかった。
祖母も同じだ。1番泣きたいのは祖母だ。なのに大泣きする長男を「絶対大丈夫だから」と慰めている。
私はその光景を見て少しも泣かなかった。いや泣けなかったというのが正しいのだろうか。
大の大人3人が子供の前で泣いている。見てはいけないものを見ているようで、そして未だに信じられていないのだ。その光景を前にしても祖母が死ぬ?どういうことなの?という状態なのだ。

弱音を吐かなかった祖母の泣き言を、一度だけ聞いたことがある

祖母は本当に頑張った。余命も半年と言われたが1年半も頑張った。そして結局最期まで祖母の泣き顔を見ることはなかった。
弱音を吐いたのもほとんど見なかった。
大変な治療が沢山あっただろうに、身体的にも、精神的にもきっと辛かったろうに、祖母は泣き言ひとつも言わなかった。
ただ、1度だけ、聞いたことがあった。

私が上京する前日に母と一緒に祖母のお見舞いに行った。
コロナの影響で病室に入るまでに何度も検温消毒をして、やっと病室に入ることが出来た。
カーテンをあけた。
「ばあちゃん、来たよ」
目の前に広がった光景に私はショックを受けた。あんなにたくましかったばあちゃんはとても小さくなっていた。着物を着たまま自転車を漕いでいたあのばあちゃんが、沢山の孫の相手を1人でしていたあのばあちゃんが、こんなに。
言葉が出なかった。出すと泣いてしまいそうだった。
「寝てるね」
母のその一言でやっと安心できた。もしかしたら、と思ってしまったから。
少し落ち着いた頃、祖母が目を覚ました。
「ばあちゃん来たよ」
もう一度言った。祖母はものすごい小さな声で何か言っていた。私は聞き取れなかった。

帰り際、引っ越してしまうのでなかなか来れなくなるかもと伝えた。すると祖母が、
「また会えるのかなあ」
と、また小さな声で言っていた。
今度は聞き取れた。絶対会えるって!そう言った声が震えていた。

ばあちゃんが大好きだった。その想いを、生きている間に伝えられていたら

でも会えたのだ。その後にもう一度だけ会えたのだ。
でもその次に会った時には祖母は動かなくなっていた。

最初にも言ったが、私は特別おばあちゃんっ子だった訳ではない。
亡くなってからばあちゃん、ばあちゃんと繰り言を言っている。
最期まで強く生きるばあちゃんが大好きだった。先に亡くなったじいちゃんの話をするばあちゃんはなんだか迷惑そうに、でも楽しそうにしていて、その話を聞くのが大好きだった。いくつになってもメイクもピアスもリングも沢山つけるばあちゃんは、かっこよくて大好きだった。
この想いを生きている間に伝えられていれば。ばあちゃん、あのねと上京先での話とか仕事の愚痴とか他愛のない話をしたかった。

後悔という感情が私は一番嫌いで、一番辛いと思う。
悲しいとか苦しいは他の方法で紛らわすことが出来る。だけど後悔はその瞬間、やりたかった事をやらないともう後には取り返しがつかないのだ。そして一生後悔は付きまとう。

一緒にしたいこと、謝りたいことが沢山ある。やっぱり会いたいよ

もし今、あなたに会えたなら。
沢山謝りたい。小さい頃、沢山迷惑をかけただろうね、わがままばかり言ってごめんなさい。
一緒にカフェに行きたい。コーヒーとタバコが好きなばあちゃんと、喫煙できる昔の喫茶店に行きたい。私、色んなところ知ってるんだよ。
アクセサリーショップに行きたい。ばあちゃんの部屋にあった沢山のシルバーのリング、ピアス、全部貰ったよ。全部かっこよくて私の趣味と一緒だった。だから一緒に行こうよ。きっと私たち同じものを選ぶだろうね。
写真を撮りたい。ばあちゃんとツーショットなんて撮ったこともなかったし、撮ろうとも思わなかった。けど着物が最強に似合うばあちゃんに着付けしてもらって、2人でも家族でも撮りたいな。

そして、やっぱりばあちゃんには沢山家族に囲まれているのが似合うから、皆で旅行にでも行きたいな。 10人ぐらいになるかもしれないけど、大きな部屋をとって、たまには大きな温泉でゆっくりしようよ。

ばあちゃん、やっぱり会いたいよ。
でも願っても願ってもばあちゃんはかえってこないから、お空から私のことを見守ってて欲しいな。
そう思えばなんだか毎日頑張れる気がする。
そしてあなたの娘、私の母のことは大丈夫です。任せてください。泣き虫で私が引っ越してから泣いてばかりだけど、たまには帰って様子を見ます。……まあほぼ毎日電話してるんですけどね(笑)。
だから、安心して、ゆっくり休んでください。

73年間、お疲れ様でした。またどこかで。