大人に近づくって楽しい。
アルバイトをしてお金を稼げるし、好きな物を自分で買えるようになった。
洋服もオシャレなデザインが多いし、似合うものを探せるって楽しくてしょうがない。
東京だって一人で好きな時に遊びに行ける。
楽しくってしかたがない。

「お姉さん、可愛いね」。突然の声かけに、思わず反応してしまった

「お姉さん、可愛いね」
都内にある大きな交差点で信号待ちをしていた私に、後ろから声をかける人物がいた。振り返ると茶色のコートを羽織った見覚えのない若い男がいた。
「どこ行くの?」
「適当に買い物をしようと」
突然された問いかけに、反射的に答えてしまった。
「へー、そうなんだ。何買うの?」
私は声をかけられることが初めてだった。でも、これがナンパだということくらいは分かった。しかし、反応してはいけないことを知るのは、もっと後のことになる。
今まで財力のないちんちくりんだと思われ続けてきた私は、一人の女と見られている気がして、心のどこかで嬉しく思っていた。お世辞だと分かっていても、他の人から言われる「可愛い」は悪い気分にはさせなかった。

世間話をして、男がしてくるプライベートな質問には濁しつつ答えた。
しかし、いつも一人で買い物をする私は少しずつ居心地が悪くなってきた。横に人がいると、ゆっくり品物を見られないし、男がだんだん喋らなくなっていって無言の時間が怖くなっていった。何も言わずに、ただ黙ってついてくることが恐怖を感じるようになった。

掴まれた左腕。大きな手に包まれた小さな手は無力に見えた

数分後、耐えられなくなってトイレに行った。ようやく一人になれたと思ってスマホを触った。誰かに、この状況を打開する方法を教えてもらいたかった。友人に連絡をすると、すぐに返事が返ってきた。
「返事したらずっと付いてくるよ。そのまま待機してて、しばらくしたら静かに出よう」
無視し続けることが正解だと初めて知った。

友人のアドバイス通り、10分以上トイレに籠った。さすがにもういなくなっただろうと思いながらも、どこかで怖くてびくびくしながら出るとまだ男はいた。
それが恐ろしくて逃げるように、気づかないふりをした。エスカレーターを昇って、街に逃げようと思った。
「ちょっと待って」
動く階段に足を乗せたと同時に、左腕を掴まれた。振りほどこうと視線を向けたが、大きな手に包まれた小さな手は無力に見えた。
「やめてください」
必死に絞り出した声は震えていた、自分で分かるくらい。
「置いていかないでよ」
男は私の願いを聞き入れることなく、耳元で呟いた。首筋に当たる吐息が、手首から伝わってくる体温が、鳥肌が立つくらい気持ち悪く感じられた。

男がエスカレーターを昇る後ろ姿を見て、ようやく息をつけた

「警察呼びますよ」
こんなことで本当に警察が来てくれるのかなんて分からない。けれど、この時の私は焦っていたし、本当に怯えていたのだと思う。
警察という単語に怖気づいたのか、手首を圧迫する力が緩んだ。
チャンスだと思って手を振り払うと、耳から離れたところで「ごめんね」という声がした。
上の階に着いた瞬間、私は店員さんがいる店に逃げ込むように入った。この時ほど100円ショップが頼もしく思ったことはない。
男がエスカレーターを昇る後ろ姿を見て、ようやく息を吐くことが出来た。でも、結局その後も、さっきみたいなことがあるのではないかと気が気じゃなかった。立ち止まっていたら、また声をかけられてしまうのではと思うと、買い物を楽しむことが出来なかった。
本当はもっと色々な物を見て回りたかったけれど、家に帰ることにした。名残惜しくはあったけれど、それが最善の選択だと思った。

この出来事が起こる前。無知な子供だった私は、ナンパがこんなに厄介で怖いものだと知らなかった。正しい対処を知らなかった。
自分が大人ぶっていただけの、無力な子供であったと思い知らされた出来事だった。