渋谷駅、地下鉄のホーム。
自動販売機で水を買った。お酒なんて1ミリも飲んでいなくて、ただ喉を潤したかっただけ。お金も、水しか買えないほどカツカツだったわけではない。普段の私なら、炭酸飲料でも買っていたところだった。
それでも私は水を選んだ。
電車を待ちながらそれを飲んで、大人になったなあ、ってちょっと思った。

その日水を選んだのは、大人のフリをしていたからかもしれない

もちろん水を買えば大人なわけでもなく、大人なら水を買うわけでもなく、ただの偏見ではあるのだけれど、私にとって「水を買う」という行為は大人のすることだった。
たいして値段が変わらないなら味のついたものを買って楽しみたい、とこれまでは思っていて、わざわざ水にお金を払えるなんて大人だなあ、と思っていたのだ。

私がその日水を選んだのは、高尚な文学の話を聞いた帰り道で、大人のフリをしていたからかもしれない。大人になりきれない私は結局その後、ジュースを買っている。

それはさておき、映画や新品の本にお金を使えるようになったのも、大人になったなあとしみじみ思う。映画は待てば地上波で見られるし、本は中古が安くていい、と思っていた。映画にお金を使う理由があるとすれば、よほど出演者に熱を注いでいて、微力でも興行成績に貢献したい、席を埋めたいと思ったから。あるいは、友達が誘ってくれたから。それくらいのものだった。
水の話と一緒で、ようは、ケチなのだけれど。

私が本屋で、気になった本をレジまで持っていくようになった理由

そんな私が、一人分のチケットを買って、一人で劇場に足を運ぶようになった。立ち寄った本屋で、気になった本をレジまで持っていくようになった。必ずしも新刊というわけではなかった。

その理由のひとつには、世界の構造を理解した、というものがある。
私は趣味で小説を書いていて、いつかは出版できたらいいなあ、と思っている。
自分の小説が出版されるためには、(自分で借金を背負う覚悟をしないのであれば)出版社に「売れる」と思ってもらわなければならないのであり、そのためには世の人々に「買いたい」と思ってもらわなければならないのである。
それを考えたとき、新品の本を書店で購入する、という行為は、自分が思っていた以上に意味のある行為だとわかった。

それから、最近とある映画(自分一人でチケットを買って観に行った。大人なので!)の監督とお話する機会があったのも大きい。彼にとってはそれが初監督作だった。一人一人の客の存在だとか、グッズの売れ行きだとかは、きっと今後の彼の創作活動に影響するんだ、と感じた。

子どもの私は、私自身を勝手に「世界の輪」から除外していた

こういった世界の構造を、もちろん知らなかったわけではない。頭では理解していた。
買う人がいないと売れない、売らない、なんてこと、当然わかっていた。それでも子どもの私は、私以外の誰かが買うから大丈夫、と思っていた。
私が買わなくてもこの作家は書き続ける。私が行かなくてもこの監督は撮り続けるし、この俳優は演じ続ける。
子どもの私は、私自身を勝手に「世界の輪」から除外していた。

大人になるというのは、自分も社会の成員なのだと自覚して、その自覚を行動に移すということなんだと思う。自分がいなくても世界は回るかもしれないけれど、みんながそう思ったら世界は回らないのだということをわかっているのが、きっと大人だ。
私は少しずつ、大人になっている。