少し困ったように笑う顔と、背筋を伸ばして凛と歩くうしろ姿。
それから図書室特有の埃っぽいにおい。
思い出せないことの方が圧倒的に多くなった今でも、その3つだけははっきり覚えている。
たった5日間。
それも昼休みと放課後の短い時間だけ。
だけど、はじめましての状態から恋心に変わるには、十分過ぎる期間だった。

高校2年生だった。図書館の静けさの中で、私は恋に落ちた

彼と知り合ったのは高校2年生のことだったと思う。
各クラスから2人ずつ図書室のボランティアを選出するとかなんとかで、部活をさぼる口実になると思った下心満載の私は、ひっそりと立候補した。
やったことといえば、昼休みのカウンター当番や放課後の本棚整理、あとは図書室に置きたい本をひとり1冊決めて注文したりと、そんな具合だった気がする。
全部で7クラスあった私たちの学年は、あらかじめシャッフルして決められたペアでそれらの役割をこなすことになっていた。

事前に渡された用紙に書いてあったのは、知らない男の子の名前。
こわい人じゃないといいなぁと思ったのを覚えている。
だけど当番の初日にやってきたのは、予想に反してやわらかい雰囲気の男の子だった。
背が高くて、姿勢がいい人。
それが第一印象だった。

文系クラスだった私と、理系クラスだった彼。
お互いに共通の話題もなく、これといって話すようなこともなかったけど、不思議とその沈黙が心地よかった。
それでも会うたび少しずつ話すことも増えていって、静かに流れる時間も、とりとめのない話をして過ごす時間も、どちらも私にとって特別なものになっていた。
「早く昼休みがこないかな、放課後にならないかな」
嬉しいのと苦しいのが混ざったように、胸の真ん中辺りがキュッとなるのを感じては、やっぱり嬉しくてドキドキした。

ほとんど誰も来ない図書室の静けさ。
ときどき交わす少しの会話。
カーテンから漏れ出す放課後特有のやわらかなひかり。
そして、少し困ったように笑う彼の屈託のない笑顔。
恋はするものじゃなくて落ちるものとは聞いていたけど、気づいたときには私もその当事者になっていた。

彼女がいることも分かっていたけど、「好き」の気持ちを伝えたかった

テニス部のエースだった彼は、いつもみんなの中心的存在だった。
はじけるような笑顔で友だちと話している光景を目にしたとき、言葉少なだった私の拙い話にも、静かに耳を澄ませて聞いてくれた彼のやさしさを感じて、はっきりと「好き」の気持ちを自覚した。
適当に合わせる訳でもなく、そのまんまの私を受け入れてくれたことが嬉しかった。
沈黙を心地よく感じられた理由が、そこに全部詰まっていた。

知らないことだらけの彼と私を結ぶ唯一の共通点は、図書室だけ。
それでもよかった。
むしろ、それでよかったと思っている。

あっという間に5日間の当番期間は過ぎ、これまで通りの日常が戻ってきた。
だけど廊下ですれ違えば、自然と彼のことを目で追っている自分がいた。
制服も体操着も、彼が身につければ別物みたいに輝いて見えて、学年集会があれば背の高い彼の姿が真っ先に目に映った。
バレないように気をつけながら、彼のうしろ姿をひっそり眺められる時間が幸せだった。

「好き」の気持ちを自覚してから約半年。
気づけば夏服は冬服に変わり、季節は2月になっていた。
確信はなかったけど、年下の彼女がいることも何となく知っていた。
ダメで元々の告白。
それでも、気持ちを伝えたかった。
「好き」の気持ちを言葉にして伝えたかった。

申し訳なさそうな彼のひと言。うしろ姿を目に焼きつけた

バレンタインの当日、理系クラスの友だちに頼んで、昼休みに彼を呼んでもらった。
人目のつかない廊下で待つ時間。
来てほしいけど、来てほしくない。
渡したいけど、渡したくない。
途端に焦る頭の中。
「私のことなんか覚えてないんじゃないか」
「いやいや、まずもって手作りチョコなんて気持ちわるいよね」
それまで何度も繰り返し練習してきた言葉は一瞬で吹き飛び、呼吸も脈もどんどん早まるのが自分でも分かった。

そんな風に焦っていると、いつの間にか目の前に彼がいた。
少し不思議そうな顔をしながら、相変わらずのきれいな姿勢で。
緊張もピークに達していた私は、何と言ってチョコレートを渡したのか覚えていない。
だけど、1拍置いてから申し訳なさそうに口にした「彼女、いるんだ」のひと言で、私の頭はしんと冷静になった。
やっぱりという思いと、それはそうだと納得する自分。
迷惑じゃなければ受け取ってもらえるとうれしいです。
私がそう言うと、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。

「ホワイトデーのお返し、どうすればいいかな」
ここでも少し困ったような顔で笑う彼を見て、好きだなぁと思ったことを思い出す。
渡せるだけで、受け取ってもらえるだけで十分だったチョコレート。
だからお返しは断って、去っていく彼のうしろ姿を目に焼きつけるように眺めた。

しばらくぼうっとしたあとで、離れた場所で待っていてくれた友だちに「ダメだったー!」とピースサインでおどけてみせたら、「ほんとすごいよ」と言って静かに抱きしめてくれた。
そのあとも何度か溢れそうになる涙を堪えたけど、部活終わりの帰り道にひとり泣いた。
胸のあたりが切なくてキュッとなるような涙だった。

彼は今、どこで何をしているのだろう。
きっとあの日のことはもう忘れているだろうけど、もしもが有り得るなら「あんなこともあったな」と、おぼろげにでも思い出してくれたらうれしいなぁなんて思ったりする。
そして、甘酸っぱくてやさしい思い出をつくってくれた彼に、届くことのないありがとうを贈りたいのだ。