オリジナルの振り付けで「踊ってみた」を投稿

突然だが、私はニコニコ動画やYouTubeなどの動画投稿サイトに「踊ってみた」を投稿する踊り手だ。
動画の平均再生数は750回程度のいわゆる「底辺踊り手」だが。
私が踊ってみたを始めたきっかけは、なんのことはない。動画投稿サイト界のとあるトップ踊り手、彼女の作り出す振り付け、世界観に憧れ、私も同じように踊ってみたいと思ったからだ。
しかし、彼女の踊りに憧れた踊り手の多くがするような、彼女の振り付けの完全コピーを私がすることはなかった。

私の初投稿は、「オリジナル振付で踊ってみた」。
自分で振付を作り、世界を表現することで彼女と同じステージに立てると思っていたのだ。
はじめはそれで良かった。はじめはそう思うことで自分の振り付けに満足し、彼女と同じ動画投稿者であることに満足していた。

それが歪み出したのはいつからだっただろうか。
伸びない再生数、増えないコメント。
周りの同時期に始めた踊り手たちが次々に再生数を伸ばし、イベントで華やかなステージに立ちスポットライトを浴びるのに対し私はいつまでたっても底辺踊り手のままだった。
焦る感情。満たされない承認欲求。
そう、いつからか私は他の踊り手と競うように数字にこだわり再生数やコメント数という数字で承認欲求を満たそうとするようになった。
そのために衣装にこだわり、ロケーションにこだわり、振り付けにこだわり、演出にこだわり、ひたすらに「伸びる動画」「映える動画」を求め続けた。
こだわりを持つこと、それ自体は別に悪いことではない。ただしそれが歪んでいなければの話だ。

再生数に一喜一憂。いつしか義務のようになって歪んでいった

私の場合は、そうじゃなかった。
「○○ができていない動画は価値がない」「再生数やコメント数が伸びない動画は価値がない」と思い込み、どうにか再生数を伸ばそうと悪戦苦闘する日々。
いつしか、私にとって「踊ってみた」の動画投稿は楽しみや趣味ではなく義務のようになっていた。
再生数の伸びに一喜一憂し、どれだけ再生数が伸びても「あの子の方が再生数が多い」という思いにとらわれ素直に喜べない。
そんな活動が苦痛になるのはそう遅くはなかった。

ついた一つのコメント。「なんか最近楽しくなさそう。顔が死んでるね」 。
そのコメントをきっかけに、様々な形での指摘コメントが書かれるようになったが、概ね統一されていたのは「楽しそうに見えない」という意味合いのコメントであったことだ。

最初のただただ、自分の世界観を曲に載せていく楽しさを忘れた私の踊りはさぞ退屈だったことだろう。徐々に再生も伸びなくなり、ついには指摘コメントもそれ以外のコメントもつかなくなった。

承認欲求に囚われた私。動画はもう投稿しない

踊ってみたは自分が楽しむために、誰かに自分の世界を分け与えるために始めた活動だったのに、承認欲求に囚われた結果、自分も含め誰も楽しめない、見るに堪えないものとなってしまった。

それに気づいた今でも、私はまだ承認欲求に囚われている。
自分を見てくれてる人の数がイコール自分の価値である、という思いにとらわれている。
数字でしか価値を測れなくなった私は、寂しい人間なのかもしれない。
それから脱却したいのにできないまま、私は今日も新しい動画を投稿した。

だが、もうこの先、新しい動画が上がることはないだろう。
価値観が歪んでしまった時点で私の「踊ってみた」は私のものではなくなり、マリオネットのように数字という糸に操られたものになってしまった、それに気づいてしまったから。また楽しめる日が来るまで今日の投稿を最後の区切りとし、私の踊り手としての生は第一幕を閉じるのだ。