僭越ながら、テーマが気に入って、今回、筆を執ることにさせていただいた。『大人とは』ではなく、『大人との距離感』とあえて銘打っているところがとても好きだと思った。
それは、私自身『大人』との距離感を説明する上で、まさに「距離感」が一番重要なキーワードであるからだ。その気づきを得ることができた、自分の失敗談を書いていこうと思う。
私は精神論をとても大事にする、「アツい人」がどうしても苦手だ
私は、同じ団体を2度途中でやめたことがある。人に迷惑をかけて逃げた、恥ずかしいことを2度も繰り返した。2度とも逃げてしまった理由は、「苦手なタイプの人だったから」という幼稚なものだった。
ミュージカルの演者をアマチュアで、大学時代から続けてきた。芝居は公演日が決まっており、団体で一丸となって稽古を行うアクティビティである性質上、お互いを励まし合ったり、時に衝突したりというのはつきものだ。
ただ、私はどうしても精神論をとても大事にする、「アツい人」が苦手だ。
様々な場面で「青春」だったり、「気合」だったりというアツいワードで周りを鼓舞するのが大好きな、いわゆる熱血な人。
申し訳ないが、苦手だ。失礼を承知で言うと、精神論を振りかざす前に、真摯に稽古に打ち込み、クオリティを上げることに集中した方がいいのではないかと、いつも思ってしまう。
私が逃げた団体は、そんなアツい人たちの集まりだ。大人がアツくなり、青春を謳歌し、できた仲間と共に最高のものを創り上げるのが大好きな人々だ。毎回の稽古では「大人でも青春」「仲間」というワードが飛び交う。
魅力的なところは確かにあった。そして何より、悪い人たちではなかったと思う。ただどうしても、私にはそのノリが受け入れられなかった。
ミュージカルは大好きだったけど、外から応援すべきだった
2度も挑戦しようと思ったのは、ミュージカル自体が大好きだったから、ただそれだけの理由だった。当時は、彼らの持つ雰囲気への苦手意識を定義化できず、嫌悪感を避けて通れないものだと自覚できなかった。
引き止めてくれる人もいた。舞台に穴も開けることになった。申し訳なかったと思う。「続ければよかった」ではなく、「外から応援すべきだった」のだと後になって気付いた。
この経験から私は、社会生活では避け難く、決して簡単ではない人間関係の構築というプロセスの中で、自分が「積極的に関わりたい人」と「苦手な人」の定義化をし、両者と良い加減の「距離感」をとりつつ、両者どちらのことも尊重しながら生きていくことが大人として重要なのではないかと感じた。
それを経て、自分は、精神論を前に出すのではなく手を動かし、淡々と、取り組むことが好きなのだと気付いた。その後は、同じような雰囲気のコミュニティを探し、創作活動に勤しんでいる。
「大人でも青春」なんて枕詞つけなくたって、私はこっそり青春している
今はバンドでオリジナル曲の作曲に勤しんでいるのだが、先日、アマチュアの作曲コンテストの機会に出会った。そのテーマは、「青春」だ。
少しうっとなってしまう。私が苦手な、「アツい」人たちがよく使うワードだ。
そして、作成中のオリジナル曲は失恋ソングで、そのコンテストに縁はないように思われた。
それを見てサラッと、冗談めいた口調でバンドメンバーが言う。「ま、この作曲自体が私にとっての青春だけどね!」と。
ああ、このくらいの温度感が好きだから、私はこのバンドにいるんだな。大人でも、なんて枕詞つけなくたって、私たちはこっそり青春している。そんな青春だったら、大歓迎だと、28歳の心がじんわり「アツく」なった。