失恋して迎えたバレンタイン。でも傍観者じゃいられない

昨年の12月に失恋をした私は、過去最低レベルで恋愛意欲がなくなっていた時期に人生で24回目のバレンタインデーを迎えた。
と言ってもバレンタインデー、別に恋人がいる女性だけが楽しむイベントではない。子どもの手作りチョコのために地元の100円ショップに訪れるお母さん。職場の男性に渡すタイミングを見計らい仕事がままならない先輩。デパートの催し物会場に陳列された限定チョコレートに並ぶその他大勢の女性。そんな方達を見て非日常を楽しむ私……。

けれど私も私の人生の主役だ、傍観者では終われない。
ということで、バレンタインデー前日の仕事終わり、せっせと混ぜて入れてオーブンにインしただけの簡単なブラウニー。

小学生の時から圧倒的に手作りが好きだ。
あの絶妙に「粉味の効いたクッキー」、やたらと銀色や金色の小さなパールが乗った別名「溶かして変形させて固めましたチョコ」。
小学生の時は目が合えば交換する儀式が自然と生まれる。目が合ってから「あ、この子に渡そうかな、数残ってるかな」と考える数秒で関係性がわかる。

とにかく、その一袋一粒から溢れ出すぬくもり、手間暇、個性を感じる瞬間が大好きで、デパートに売られている高級チョコにはない特別感がある。

だけど悲しいかな、大人になるにつれて手作りチョコに対する羞恥心がフツフツと溢れ出し、前日はベッドに入って2時間は寝られなかった。

限定のブラウニーをレターケースに。そして自分のケースには…

当日、特に誰に渡すとも決めずに袋詰めした限定7つのブラウニー。職場は200人超えの社員がシフト制で入れ替わる。
いつもお世話になっている先輩、その日たまたま会えた同期と会えない同期にはそれぞれ個人が所有するレターケースに突っ込んでおいた。同様な手口により、その日のレターケースはお菓子が入っているであろう袋がちょこちょこと顔を出していた。

退勤する最後にチェックする自分のレターケース、まず顔は出していない。
であれば、収まりのいいお菓子が入っているかなと少しだけ期待をしながら開けると、ドーンと会社で受けた健康診断の結果書類。

やはり期待してしまう日なのだ。それは、圧倒的人気者ではないがもらえるかもらえないか瀬戸際にいる男子中高生と同じように、学生の頃の記憶がはっきりと残りつつ、社会に出てイベントごとにはそれほど気は回りませんよという空気感に呑み込まれた社会人2年目女性も、少しばかりは期待してしまうものなのだ。

誰かの期待を、落胆じゃなく喜びに変えられれば良かったのに

けどそりゃそうだ、私も最初から7つしか用意していなかったのだから、私からもらえなかった人は193名はいる中で、少し期待していたけれどもらえなかった人は100名はいただろう。
「用意しておけばよかった……」
もう手作りにこだわらずとも、誰かの期待を落胆ではなく、喜びに変えられるなら市販の小分けチョコを数種類買って可愛い袋に詰め合わせてレターケースに入れておけばそれで十分だっただろう。
それは自分がこの絶妙な寂しさを経験して初めて気付くものだ。
私が欲しがっているなら、誰かも欲しがっていたに違いない。そしてもらうよりもあげることができたらどれほど幸福感で満ちただろう。

レターケースを開けて、唯一入っている詰め合わせチョコを見て何食わぬ顔で平然と取り出しながら、心の中ではトランポリンにでも乗っているかのように弾ける喜び。そんなストーリーを作り出せなかった後悔が残ったまま今年のバレンタインデーは終わった。

そういえばホワイトデーは、バレンタインデーにもらった相手へお返しする日と言われているが、バレンタインデーの後悔を払拭するための日へという概念に変えてはもらえないだろうか。

結局チャンスは一回、そのとき限りなのだという普遍的テーマの罠にハマったバレンタインであった。