きっと、あの酔っているが如き興奮を感じることは、もう滅多にないのだろうと思う。準備は面倒だったが、それでも純粋に楽しかった。

私は現在、大学2年生を終えつつある。コロナのせいで、授業はほぼオンライン。サークルに所属していないため、友人も少ない。毎日、毎日、自室にこもって授業を受け、外出は習い事かバイトと家の往復のみ。
すると、面白いことに時間の感覚がなくなっていく。日々をダラダラと過ごすと、いつの間にか年中行事が私の前を走り去っていく。大人がよく口にする「一年なんてあっという間」という言葉は、この現象を指すのだろう。

今思えば、小学校から高校卒業に至るまで、私の生活は多種多様なイベントに彩られていた。運動会、文化祭、定期テスト、クリスマス等の学校行事や季節の行事。学校中が湧き立ち、私の無意識下で時間の流れを明確にしていた。
そして、そのうちの一つが、バレンタインである。

バレンタイン時期は学校中が浮足立ち、相手がいなくとも空気が楽しい

バレンタインの時期は、学校中がチョコをめぐって浮足立つ。
中学校では、いかに先生にバレず交換するかが肝だった。ガムの包み紙1枚で、学年集会が開かれる学校だ。当日は、まるでチョコが違法薬物のように扱われた。
高校は菓子類の持ち込みが許されていたので、一番楽しいバレンタインだった。しかも、彼氏彼女持ちが増えるので、以前よりも格段に浮つきが大きくなる。自分に相手がいなくとも、すでに空気が楽しいのだ。

その日は、クラスの女子でお金を出し合い、教卓の上にお菓子のタワーを作った。黒板にメッセージを書いて、色の限られたチョークで絵を描いた。ホワイトデーには、男子が同じことをしてくれた。
部活では、手作りチョコを持ち寄った。バレンタインに、女子が手作りの菓子を贈る風習があったからだ。それを初めて聞いたときは、なぜ女子だけ、とひどく憤慨したのを覚えている。実は、1カ月後のホワイトデーに、今度は男子が手作り菓子を渡すというルールだったのだが。

労力も費用もかかるお菓子作りをするのは、年に一度のこの日だけ

クラスでは1週間ほど前から、手作りをするか否かという話題で盛り上がった。
ご存じの通り、私は作る必要があったので手作り派だった。しかし、その言い分は正しくもあり、誤りでもある。
クラス40人分と部活20人分のお菓子を作るのは、なかなかに労力が必要だ。材料費だって結構かかる。
だが、一年に一度、まともに菓子作りをするのはこの日だけ。そのため、非常に面倒なその作業を楽しみにしている自分が、心のどこかに存在していた。
料理をするのは好きなので。そしてまた、「美味しい」と褒められたかった。きっと、小さな自己顕示欲を満たしたかったのだと思う。

バレンタイン当日、教室の至るところでお菓子の交換が行われた。
1年生のときは、ラッピングせず、タッパーに詰めた菓子を配り歩く先輩の姿に衝撃を受けた。次の年は、私がタッパーにチョコレートブラウニーを詰め込んで、クラス中を練り歩いていた。とても浮かれた時間だった。

学校全体で生じる不思議な一体感は、今や得難いものなのだと知った

私は現在、大学2年生を終えつつある。世間は、例年の如くバレンタイン商戦を打ち出し、コンビニにさえも綺麗な箱に入ったチョコが並んだ。私にも、バレンタインにチョコを贈った。
それでも、バレンタインはあっという間に私の前を通り過ぎて行ってしまった。テレビや店で見かけるバレンタイン特集は、私に季節を教えてくれた。しかし、あの異様な興奮を体験させてはくれなかった。

大人は往々にして過ぎ去った日々を懐かしむ。または、それを語る。うざったいと思っていたが、確かに中学・高校で感じた、あの学校全体で生じる不思議な一体感は、今や得難いものなのだと知った。
今度、ノスタルジーに浸った人の話を聞くときは、いつもより一割増くらい真面目に聞こう。そんなことを思いながら、自分で買ったチョコに手を伸ばす。