「人のためになる仕事じゃないと、将来長続きしませんよ」
中学生の頃、国語の先生が授業中に熱弁をふるっていた。
そんなかったるい綺麗事も、心の何処かに刺さっていたのだろうか。大学4年生の時、就職活動で語った「御社で人に寄り添った提案をしたい」「御社が提供する○○な人のためのサービスに共感した」という、半ば本心ではない志望理由にそんな「人のため」精神が息づいていた。
「人のため」精神って何だと思うくらいに「心を亡くす=忙しい」日々
その甲斐あって大学卒業後、自分のライフコースの変化に合わせて働ければと都内の百貨店で美容部員として入社した。しかし、慣れないまま配属店舗が変わっていったり常に気を抜けない環境に耐え切れず、入社7ヵ月目で適応障害になり1年半休職していた。
その後、勤務時間を減らして自分の体調に合わせて働ければと契約社員でコールセンターの仕事を始めたが、覚えることの多さと気遣いな性格でキャパオーバーしてしまい、入社4か月目で退職した。
書き出してみると「人のため」精神って何なんだろうと疑問に思うくらいに「心を亡くす=忙しい」日々を過ごしていた。
自分のペースで働きたくても、「人のため」精神をすり減らさなければならないのだろうか?
そんな私は現在、月に1回ラジオパーソナリティをしている。
元々ラジオの公開生収録が大好きで、中学生の頃から帰宅途中にラジオ局に立ち寄ってはガラス越しのラジオパーソナリティのトークを聞くのが秘かな楽しみだった。
今はそのガラスの向こう側の人になっているのだから、なんだか感慨深い。
出演番組は生放送。自分の裁量でトークを展開したり、キリよく終わらせたりすることが鍵となる。そして、かつての自分のようなリスナーさんとガラス越しにやり取りをすることも最近の楽しみのひとつになっている。
ラジオが好きでトークを回すのが向いている、私の才能
ある日、10年来のTwitterのフォロワーさんで子育て中のママ・Yさんとお茶をする機会があった。
「リサちゃんはやりたいことがあってすごいよ。私なんてリサちゃんくらいの年頃で主人に出会って結婚して子育てして。やりたいことなんて特にないからね」
「えー、私はYさんみたいに“結婚、出産、子育て”をされている女性の方が素敵だと思います。私もYさんみたい早く結婚したいです」
卑下した結果、意図せずYさんに気を遣わせてしまった。
Yさんは、木漏れ日のような優しい口調で続けた。
「こないだね、有名な塾講師の先生がテレビで言ってたんだけど、人間には“好き・嫌い”と“向き・不向き”があるらしいの。ちなみにその塾講師の先生は元々一般企業で営業職をしていたらしいんだけど、営業職自体は“好き”なのにイマイチ“不向き”だったんだって。
でもその先生のご友人の薦めで今の塾講師を始めたみたいなんだけど、好きではないけど向いてたんだって。リサちゃんはラジオが“好き”でトークを回すのが“向いている”からすごいと思うよ!その才能、大切にしてほしいな」
無理に不向きなことをしてまで、「人のため」になる必要はない
その話を受けて「人のため」精神の呪縛が少しずつ溶けていくのが自分でも分かった。
これまでのことを考えた時、無理に“不向き”なことをしてまで「人のため」になる必要ってなかったのではないだろうか?
「人のため」精神をすり減らした末に退職した時、その都度実感させられたこと。そう、私の代わりはいくらでもいたのだ。
それでは私にしかできない「人のため」になることって何だろう?
きっとそれは“向いている”ことを活かして、「人のため」になることではないだろうか。そこに“好き”という感情が伴っていれば精神を消耗するところまでいかないのではないだろうかと思う。
「人のため」になる仕事を見つける際の大前提として、自分の感受性を改めて大事にするいい機会になった。
この春、私はラジオパーソナリティになって1年経つ。
“好き”と“向き”を活かして、今日も電波の向こう側にいるリスナーに向けて発信する。