彼女の音楽は太陽かつ月のよう。疲労困憊の私にそっと寄り添った
私には、無色透明な日常に桃色の幸せを届けてくれた女性アーティストがいる。
社会という秩序に疲労困憊し、上司には「君は、こういう人だよね」と塗り替えられた肩書きを背負わされ、「違う」と叫ぶ心を押し殺した日々を送っていた。すると、自分で自分という存在が分からなくなる程、羞恥で自堕落な生活を送ってしまっていた。
ある日、作詞作曲編曲までも彼女が手掛けたMVが流れてきた。MVでは女性同士で深いキスを交わし、交わした相手の身体を土に埋めていた。見た事がない映像に絶句し、パンドラの箱を開けたような感覚に陥った。
しかし思考回路を溶かしていく様な癖になる音色、歌詞の意図を隠そうとするセンセーショナルな映像美に心が揺れ動いた。
その日以来、彼女のMVやライブ映像を拝見し、歌詞を読んでは聴いて、MVを観るという行動を繰り返した。そこには彼女の「人間らしさ」が謳われている様な気がした。
自分を見失いそうになっていた私にとって、彼女が創造する曲は太陽且つ月のような存在となり、温かく時には冷たく寄り添い、様々な事を教えてくれた。
彼女の曲と演出に圧倒され、鳥肌とセロトニンの分泌が止まらない
ある日、偶然にもライブがあるという事でチケットを取り、高鳴る鼓動に合わせて会場へ足を運んだ。しかし、私は初めてという事もあり、楽しみの中には小さな不安も生まれていた。
会場は老若男女問わず、多くの方々が訪れていた。ライブが始まると、散乱していた人々の気持ちが一瞬にして彼女に集中するのを感じた。
彼女は歌い終わる度に、「ありがとう」と感謝の意を表していた。
私はとても驚いた。終演後やMC時に感謝を伝えるアーティストは拝見してきたが、曲が終わる度に感謝の言葉を述べているアーティストは拝見した事がなかった。
もう1つ驚いたのは、彼女の演出だ。マイクのコード、指先、視線、身体の動きや曲線美でさえも曲の表情となり装飾となっていた。
また彼女は、頬が落ちそうになるぐらいの笑顔を沢山魅せてくれた。ファンと楽しい空間を共有し、音楽の世界観や自分の感情を表現するという屈託のない幸せを届けていた。
こんなにも人間の身体は演出の一部に同化するのか、彼女は本当に生きているんだと圧巻されてしまい、鳥肌とセロトニンの分泌が止まらなかった。
ライブ後に満ち溢れる感動と多幸感。忘れていた「何か」を見つけた
彼女の音楽に対する優しさに触れた後、私の陳腐な不安は一掃され、枯渇していた身体に彼女の想いが沁み渡ってきた。ライブ後、私は多幸感と感動に満ち溢れ、見慣れた風景や街灯で濁った空が、宝石の様に輝いて見えた。それと同時に、私の中に忘れていた「何か」を見つけられた気がした。
彼女の存在は「人生が変わりました!」と安易に揺れ動くチープな存在ではなく、どんな感情の時でも寄り添い、自分自身で自分という存在を気づかせてくれる方という事を知った。
アーティストというのは「何か」を纏い、自らを魅せる事で不明瞭な事象を形にする芸術者だと思っていた。私はその表現に対して、侘びしさと心の距離を感じていた。
しかし彼女は自らの葛藤や怠慢、喜びから哀しみを赤裸々に綴り、創造する世界観とは裏腹に感情の成長記録を晒し、届けている。私は彼女の創造する音楽に、近しい人間味を感じると共に、脳裏に焼き付く個性ある音色にどんどんハマっていった。
私は彼女に出会った事で、音楽の円環的な生き方を学び、怠慢な日々に息を吹き返した。
しかし、未だに見つけられた「何か」がどの様な存在、感情なのかを自らで理解出来ていない中、生活を送っている。しかし彼女と出会って以来、普遍的な毎日に幸せを感じるようになった。彼女が伝えてくれたのは、漠然とした「何か」では無く、ありふれた日常の中に生まれる「普遍的な幸せ」だったのかもしれない。
もし今彼女にお会いできるのであれば、私は両手で抱えきれない程の感謝と愛を表したい。