2月14日、予定日から1週間経っても生まれてこなかった私は、帝王切開でこの世に生を受けた。母のお腹を切ることになってしまったのは申し訳ないが、予定日に出てこれないほど居心地がよかったのかもしれない。
バレンタインデーは思いがけず私の誕生日となった。

誕生日がイベントと重なると誕生日を覚えてもらいやすかったり、イベントに合わせて予期せぬ人からプレゼントをもらえる機会が人より増えたりする。
しかし、誕生日とイベントを切り離して考えてもらえない呪縛から、なんだか悪い意味の“一石二鳥”を感じ、虚しくなることも多々ある。

カップルで溢れるカフェで、7歳の誕生日を祝うミスマッチな記憶

7歳の誕生日の日、両親の趣味で海外でも有名なロックをコンセプトにしたカフェでお祝いしてもらった。
本場に行った事はないがアメリカンダイナーといった雰囲気で、ギターのレプリカが壁一面に飾られた店内には有名なロックが永遠に流れていた。
休日のバレンタインデーということもあり、周りの席は熱々なカップルだらけ。
幼心にアウェイな状況であることは瞬時に察し、すぐにでも家に帰りたいと思ったことを覚えている。

しばらくすると、ベンベンと響くベース音のイントロが特徴的な「オー・プリティ・ウーマン」が店内に流れ始めた。
それと同時に店員さんたちがタンバリンをシャンシャンと鳴らしながら、パチパチと音を立てる花火が飾られたバースデーケーキを運んできてくれた。
「フゥ~!」「お誕生日おめでとう~!」とハイテンションでお祝いしてくれる店員さんたちを尻目に、周りのカップルの冷ややかな視線は7歳の私に一直線だ。
恥ずかしくてテーブルに視線を落とした小さな耳にリズミカルなタンバリンとまばらな拍手がこだました。

自分が主役の日なはずなのに、イベントを楽しむ人々との空気感のミスマッチになんだか申し訳なさを感じたのを今でも覚えている。

誕生日は“貰う側”なのに、バレンタインは“あげる側”なのはなぜ?

16歳の誕生日の日、高校生だった私は登校して教室に入るや否やクラスメイトから「お誕生日おめでとう!はい友チョコ!」と沢山の手作りチョコレートを渡された。
私は今思うと偉そうな態度で「ありがとう! 今日は誕生日で主役やけん! お返しはホワイトデーまで待っとって!」と冗談を言いながらチョコを受け取っていた。思い出すだけで恥ずかしい。

歳を重ねるごとに自分の中で誕生日とイベントを切り離して、どちらかというと誕生日に重きを置くようになっていることに気づいた。
そうした心の成長とは裏腹に傲慢な感情が沸き起こった。

「今日は私が主役で“貰う側”なのに、なんで人にあげないかんと?」

気になることはすぐに調べる性分。早速ネットで調べてみたところ、バレンタインデーに「女性から男性へチョコレートを贈る」文化は日本独自とのこと。
欧米諸国では友人も家族も関係なく、互いに日頃の感謝と愛を込めてプレゼントを贈り合うのが一般的だそうだ。
そういった海外の文化を知り、自分自身が主役で“貰う側”だと傲慢になっていたことを少し恥じた。

損得勘定のような傲慢さを手放すために、この日に生を受けたのかも

思いがけずにバレンタインデーが誕生日になった私だが、損得勘定のような傲慢さを手放すためにこの日に生を受けたのかもしれないと、ふと思った。

誕生日だから、バレンタインデーだからといって損得勘定でお返しをするのはなんだか虚しいように思う。
生まれて四半世紀を迎える今年の誕生日から、“貰う側”だけでなく、日頃の感謝と愛を贈る“あげる側”も楽しんでみよう。
今年の誕生日、なんだか良い意味の“一石二鳥”な気がして楽しみになってきた。