気づいた時にはもう、バレンタインというイベントは私にとっては縁遠いものだった。
「好きな人に思いを伝える」そんな趣旨が掲げられるこのイベントは、可愛い女の子たちだけに許された特別なイベントだ。
もちろん、友チョコだってあったし、私も友人から受け取ったりした。「ありがとう、美味しそうだね」。そうお礼を口にしてはいても、内心では板チョコを溶かして成型した固いチョコレートなんて欲しくなかったし、お返しを考えるだけでも面倒だった。

女の子としての立ち位置で変わる、バレンタインの思い出

そんな私でも、1度だけバレンタインというイベントを楽しんだ思い出がある。いろんな思い出を考慮すると、おそらく3歳か4歳の時、相手は同じルートのバスで通園する同い年の男の子だった。
バスは時期によってルートの順番が変わるので、幼稚園に着いてもいつも同じ友達がいるわけではなかった中、同じルートだったその男の子はいつでも一緒にいてくれて、とても安心していた。
その頃の私は、まだ女の子としての自分の立ち位置を知らなくて、普通の女の子だった。だから、私なんかからもらったら迷惑なのではないかとかお返しを考える負担とかそんな事を考えもせずに、「特別な異性にプレゼントを贈る」というバレンタインを純粋に楽しんでいた。

少しずつ周囲との関わりが出来てくると、集団の中でも自分の立ち位置が分かってくる。その中で、私に与えられた立ち位置はブスだった。
初めて言われたのは、5歳くらいだろうか。忖度なく言われたその言葉に私は、平気な素振りで傷ついていた。
それからは、恋愛はもちろん人との関わりも苦手になった。どこにでも、どこまででも「私なんか」が付きまとっていた。

だから、「あなたは私にとって特別な人です」と、そう表現するようなバレンタインの思い出は、そのほとんどが他人の顔をして眺めているような思い出だ。
親友が告白すると聞いても、よくやるなぁとしか思っていなかったし、チョコをもらっても校則を盾にこっそり貰うだけでお返しはしなかった。

楽しい思い出とつまらない思い出。どちらも間違いだとは思いたくない

あの頃の私には、それが精一杯だった。今、思い出として振り返ってみると、もっと楽しめたら良かったとも思う。私の選んだ道は、いろんな可能性を諦めて失敗しないものだった。
でも、それはあの頃の親友たちも同じだったのではないかと思えるのだ。
私が悩んでいただけで、彼らはもっと気楽に考えていたのかもしれないし、失敗を私ほど大きなものとは考えていなかったのかもしれない。彼らの真意は分からないけれど、私が勝手に小さな傷を引きずっていただけで、立場にそんなに大きな違いはなかったはずなのだから。

ただ1回の楽しい思い出と、それからのつまらない思い出。どちらも、その時の私が正しいと思っていたもので、間違っていたとは思いたくない。でも、私も一緒に楽しみたかったのだと思う。
そんな思い出は小さな波紋を残していて、その意味をこれからの選択に生かしていきたい。あの時、男の子からお返しにもらったはずのハンカチはどこかに行ってしまったけど、誰かを大切に思ってプレゼントを選んだ幸せな思い出は、私の中にちゃんとあるから。